Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

『オデュッセイア』は異世界ものである~異世界ものから第二の純文学へ

 愚生の筆名『九頭龍一鬼』に似ているということで、興味をもち、九頭七尾氏の異世界転生ものを読んでみた。

 SF作家をこころざしているくせに、普段は、純文学ばかり読んでいる愚生にとって、異世界ものを劉覧するのもはじめてであった。

 今回の読書体験は、予想をはるかに凌駕する衝撃となる。

 ひとことでいうと、『異世界ものには文学史が存在しない』ということである。

 異世界ものはあきらかにTVゲームを正典=キャノンとして成立しており、その文脈には北村透谷も二葉亭四迷綿矢りさも夾雑しない。

 無論、それがよいとかわるいとかいう問題ではない。

 かつて、高橋源一郎の著作に『すべての物語は『オデュッセイア』の亜種である。つまり『ことなる世界に旅立って帰ってくる』という構造である』と書いてあったと記憶する。

 異世界転生もの、異世界転移ものは、『ことなる世界に旅立って帰ってくる』という構造すらもっていない。それは『ことなる世界に旅立つ』だけの物語であり、つまりは『黄泉の国への旅立ち』であって、おおくの異世界ものが主人公の死からはじまるように『殪死の隠喩』である。

 現代の日本人が、岩波文庫集英社文庫で『オデュッセイア』と『ユリシーズ』を併読すれば明鬯だろうが、『オデュッセイア』は大衆文学であり『ユリシーズ』は純文学である。

 異世界ものがわれわれを驚愕せしめるのは、前述のとおり『そこに文学史が存在しない』からであり『神話のかわりにTVゲームが正典=キャノンとされている』からである。

 異世界ものが、いかなる文学史にもぞくさないという、『驚異的』な構造をもっているのは『オデュッセイア』が『驚異的』な構造で出来ているのと同様である。

 つまり、ホメロスギリシャ神話から『オデュッセイア』を構築したのとおなじく、異世界ものはTVゲームから帰納されたものであって『それ以前に文学史が存在しないところから立ち上がっている』ことが共通するのである。

 重複するが、重要なのは、愚論において『TVゲームより邃古希臘神話のほうが崇高である』といいたいのではなく『TVゲームも神話も脱構築可能な階層秩序的二項対立にすぎない』ということである。

 ここで、『オデュッセイア』が大衆文学であり『ユリシーズ』が純文学であるという愚論を髣髴してもらいたい。

 はなしは簡単で、大衆文学は文学史をもたず、純文学は文学史のなかにしか存在しえないのだ。

 ここにおける純文学の代表例として、スターンの『トリストラム・シャンディ』や、ボルヘスの『伝奇集』、ソローキンの『ロマン』などを髣髴いただければ旗幟鮮明とされるだろう。

 これらの作品は、大衆文学という常態があるからこそ存在がゆるされる例外なのである。

(『常態はなにも証明しない。例外こそがすべてを証明する』シュミット『政治神学』)

 同時に、それが例外であるがゆえに常態を定義する重要なものさしとなる。

 神がわれわれの痛みを計るものさしであるように(ジョン・レノン「GOD」)、純文学は大衆文学の欠点を計るものさしというわけだ。

 この意味において、浅田彰の指摘するように『純文学があるから大衆文学がある』のではなく、愚生は『大衆文学があるから純文学が誕生したのだ』と主張したい。

 ここが面白いところで、以上の愚論が正鵠を射ているのならば、やがて、異世界もの=新種の大衆小説が『歴史』をもちはじめたとき、おそらく、『オデュッセイア』から『ユリシーズ』たち純文学が誕生したように、異世界ものから将来の純文学が発軔するとおもわれる。

 曩時に量産された騎士道物語から『ドン・キホーテ』が誕生し『ドン・キホーテ』からボルヘスが誕生したようにである。

 僥倖にも、いまもなお、異世界ものの人気は退嬰していないようにおもわれる。

 が、愚生がおもうに、異世界ものの本統の可能性は『異世界ものが頽廃したのち』に存在する。

 つまり『異世界ものがだれにも読まれなくなった』とき『異世界ものはついにひとつの文学史』となり『異世界ものから第二の純文学=第二の日本文学が生まれる』であろうということである。

 愚生は無知蒙昧だが、すでに異世界ものはすたれはじめているという言説も存在するようだ。

 が、愚生はこれからの異世界ものの可能性に期待したいのである。

 追記――

 以上、異世界ものが文学史となったとき、つぎなる純文学が生まれる、と議論してみたが、推敲中『あれ』とおもった。

 異世界ものとおなじ状況にあった、曩時のケータイ小説が、結句、文学史を構築することあたわず、『純文学化』することができずに退嬰していった歴史を髣髴したのだ。

 ただし、ケータイ小説の文脈に、『文學界』出身の著者による『世界の中心で愛をさけぶ』が存在し、これが成功したことは稀有ながら事実である。

 あとは、今後の歴史が審判をくだすであろう。