Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

手相考~うらないの科學的論拠

 輓近、愚生は煙草の喫いすぎのためか、脳髄が朦朧としており、まともに小説を書ける状態ではなくなってきている。煙草のせいというよりは、加齢による影響のほうがおおきいかもしれない。人間の知能指数は二十四歳をピークとして偏差が修正され、漸次、平均値が低下してゆくという。また、夢枕獏氏は『二十代までは想像で小説が書けたが、三十代になると元ネタが必要になってきた』というように仰有っていたはずである。そもそも、愚生はこの文章もまともに書けている自信がない。

 本随筆集は文學談義を中心にしてゆこうと発軔したものだが、無論、生きていればさまざまなことをかんがえる。其処で、愚生の趣味である卜占について、すこし物語ってみたい。

 今回は手相についてである。手相にかぎらず、一般のかたは『うらないは信じるときもあるけれど、そもそも、なんの根拠があるの』とおもわれているのではないか。今回、手相をとりあげたのは、その説明がしやすいからである。そう、愚生は『卜占の根拠』を此処に説明せんとしているのだ。破家げている。

 卜占、なかんずく、手相の根拠としてあげるのは、愚生の小説群でもおなじみの量子力学である。『量子論で説明するのならば、波動関数プランク秒単位でブラベクトルとケットベクトルに聚斂するので、卜占のみならず、未来を豫測することは不可能ではないか』と批判されるかもしれない。たしかに、量子力学の世界では、マルチバース論が基本であり、宇宙はつねに分岐しているのだから、未来が『どちらの宇宙に分岐するか』は原理的に豫測しえない。(余談だが、よくSFで過去へとタイムスリップすると、現実の歴史が改変されるので問題がある、というくだりがでてくるが、これも、『人間というマクロな系が過去にタイムスリップしたら、その宇宙全軆の波動関数はおおきく別のベクトルに聚斂する』とかんがえれば、斯様なパラドックスがおきないことは容易に理解できる)

 ゆゑにこそ手相なのである。うらないマニアのかたは御存知のように、四柱推命紫微斗数は誕生日時によって不変だが、『手相は毎日かわっている』のだ。面倒なので、此処で結論らしきものを書くが、『手相はEPRパラドックスによって未来で観測された情報が光速をこえて過去にあらわれた証ではないか』というのが愚生の仮説である。

 アインシュタインが生涯、量子論を信憑しなかったことは有名である。論拠として、氏は『量子論がただしければ、ふたつに分割した量子間の情報は光速をこえて伝播されることになる。これは相対性理論に反する』と主張した。其処で、『EPR実験(だったっけ?)』という名目で現実に光速をこえる概念は存在しないことを証明しようとしたが、結果、『情報は光速をこえてつたわる』ことを躬自ら証明してしまった。これが有名なEPRパラドックスである。

 此処で手相のはなしだ。相対性理論によると、光速をこえて移動する概念は過去へもどるはずである(この前提が間違っていたら、愚生の記憶ちがいなのですみません)。畢竟、未来の情報はすべて過去へと伝播されている、というのが愚生の理窟である。EPR実験では、同時刻におけるふたつの量子間の情報のやりとりがなされたが、相対性理論の時空連続体仮説によって、時空は同一のものなので、同時刻でなくても、きょうだい同士の量子間では情報のやりとりがなされているはずである。ゆゑに、未来の愚生の物理的な情報が、光速をこえて、過去の愚生の物理的な情報としてあらわれたのが、愚生の『手相』なのではないか、ということである。これならば、未来の宇宙が分岐しても、その都度、手相がかわってゆくという理窟で納得できる。

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 已上、愚生のかんがえた理論を披瀝させていただいた。無論、愚生は物理学の博士号をもっているわけでもないので、すべては、ただの戯言=イッツ・オンリー・トークである。

 此処で、手相についてもうひとつ書いておきたいことがある。これは物理学とは関係なく、純粋に手相の理論についてのはなしなので、気楽に劉覧していただきたい。

 よく、『左手は過去の運勢で、右手は未来の運勢である』といわれる。が、愚生は曩時より納得がいっていなかった。左手が過去の運勢ならば、流年法で読める過去の手相までも『変化』するのはおかしいではないか。其処で、御名前は失念したが、某有名手相占い師のマニュアルを閲覧していたところ、『左手は精神的なもので、右手は物理的なもの』という記述がみつかった。畢竟、『左手は自分がそのときどうおもったか』であり、『右手は他人からどうおもわれたか』という読み方ができるのである。愚生が星新一賞で最終候補にのこった三十四歳の爾時を生命線の流年でみると、左手にはながい向上線があらわれているが、右手にはごくみじかい向上線しかでていない。これは、『愚生ははじめて最終候補にのこったので、たいへんうれしかったが、最終的には受賞にいたらなかったので、他人からは大成功とはおもわれなかった』と読める。よく、『左手の運勢はよいけれど右手はわるいから、未来はわるいんだ』となやむかたがいらっしゃるとおもうが、斯様にかんがえれば、問題ないのだ。