Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

『地下室の手記』再読~バフチンの傍証として

 現在、バフチンの名著『ドストエフスキー詩学』を読んでおり、バフチンの怜悧さに驚嘆しながらも、『本統に此処まで上手くドストエフスキーを理論化できるのだろうか』という疑問に憑依された。
 現在、読んでいるかぎりにおいて、『ドストエフスキー詩学』を簡略に整理整頓すると、『登場人物たちが重なり合わない状態で対話をつづける』畢竟『ポリフォニー』と、『地位や年齢などを凌駕した対話を可能にさせる渾沌の状態』畢竟『カーニバル』がドストエフスキー文學の特徴であるというのである。バフチンによれば、このポリフォニーとカーニバルを純粋な意味で実現しているのは(二十世紀前葉、バフチンの時代において)ドストエフスキーひとりであり、ダンテやシェイクスピアが肉薄するが、その完璧さにおいて、ドストエフスキーこそが人類史上最大の作家だというのだ。
 バフチンは論拠として、『トルストイのえがく人物は善人でも悪人でも完成されており、トルストイの意嚮にそって行動するだけ』であるのにたいして、『ドストエフスキーのえがく人物は未完成であり、つねに対話をとおして、ドストエフスキーという人格を凌駕した群像劇をつくりあげている』こと(これはさらに、『人間は死ぬまで完成されない存在であるがゆゑに、ドストエフスキーの描写のほうが写実的である』というようなサルトル的な論拠までしめされる)などを列挙している。
 バフチンは、所謂『五大長篇』および、そのほかの小品を引用して論述してゆくのだが、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『地下室の手記』でしかドストエフスキーを識らない愚生としては、バフチンに圧倒されるとともに、溜飲のさがらないところもあった。
 其処で、小品として『地下室の手記』を再読し、バフチンの理論が何処までただしいか浮彫にしてみようとおもった。愚生は速読の癖があるので、誤謬もあるかもしれないが、再読して喫驚したのは、『本統にバフチンのいうとおりだ、バフチンすげえ』ということである。以下、如何程、バフチンの理窟が精緻かを、『地下室の手記』の各箇所をふりかえりながら検証してみたい。

 『地下室の男』の最大の苦悩は『自分がなにものでもない』畢竟『永遠に未完成である』ことである。(亦『賢い人間がなにものかになれるわけがない。なにものかになるのは愚鈍な人間だけだ』というように、『地下室の男』にとって、なにものでもないことは、苦悩であり矜持であるという両面性をもつようでもあるが、重要なのは、『地下室の男』は『愚鈍な人間』になることをも羨望しているきらいがあるところである)バフチンも引用しているが、『本統になにもしていない』のであって、『怠け者とでも呼ばれたらどれだけうれしいか』というように書いている。亦、中途、厭味な人物に『蠅ともおもわれなかった』という記述があり、愚生なりに解釈すれば、『地下室の男』は『蠅とでもおもわれればどれだけうれしいか』というくらいに自我同一性の未完成さ(現実の我々人類の問題でもある。余談だが反フロイト派のドゥルーズガタリは人間の自我同一性を否定している)に苦悩しているのだ。

バフチンは『罪と罰』の冒頭でラスコーリニコフが胸臆で自問自答する箇所を引用し、『ひとりの登場人物のなかの対話もポリフォニー』であるとし、ラスコーリニコフの内心の対話が、のちのソーニャとの対話を中心として、『罪と罰』全軆の群像劇を予告しているという。『地下室の男』も、冒頭から『諸君』と対話しながらも、『諸君』は男の創作した架空の人物だと闡明している。まさに、ラスコーリニコフにおける自問自答の原型である。

 バフチンが指摘していないので、これは愚生の愚論にすぎないが、前半、『地下室の男』は『おおくの苦悩を抱えているので諸君に解決してほしいのだ』というように執筆していて、これこそがドストエフスキー文學の骨骼ではないかと考覈する。畢竟、『ドストエフスキー文學とは、ドストエフスキーのなかのポリフォニーの解決を、読者に嘱望している』のではないか。

 中盤、旧友たちに為人を蹂躙されて論争する場面があるが、此処は登場人物のおおさはともかく、対話というよりは子供の諠譁のようなもので、カーニバルだがポリフォニーではない。翩翻として、後半、娼婦リーザとの対話は、一対一、ふたりきりの議論だが、ふたりの人格の対比が見事に台詞に活きており、れっきとしたポリフォニーになっている。この対話が大人数でおこなわれれば、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』になるはずである。

 地下室を主人公の精神状態の隠喩だとすれば、ラスコーリニコフカラマーゾフ兄弟も、其其のこころを地下室に閉じ込めており、『地下室からの聲』で対話しているといえる。ゆゑに『地下室の男』こそ、嚮後のドストエフスキーのつくりだす登場人物の原型ではないだろうか。ジッドも『地下室の手記』こそ、五大長篇を中心とする後期ドストエフスキー文學の『鍵』だといっていたようだ(ジッドの時代からして、ジッドもバフチンを劉覧したうえで、『地下室の手記』を再読した可能性もある)。極論すれば、ドストエフスキー文學は『地下室の物語』だったのである。

 ドストエフスキーの処女作『貧しき人びと』の冒頭に、オドエフスキー公爵なる人物の評論が引用されている。ドストエフスキー文學全般を象徴するテクストなので、これを最後に孫引きしたい。

『いやはや、世間の小説家たちときたら、困ったものだ! なにか有益な、気持のいい、心を楽しませるようなものを書くどころか、ただもう地下の秘密を洗いざらいほじくりだすばかりではないか!(後略)』