Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

文學は死んだのか。~『文學は死んだ』は死んだ

 サブカルチャー評論界を中枢として、『文學は死んだ』というような論評がよくなされる。文學はもう売れないから駄目だ(抑〻だが、芥川の時代から『羅生門』が二〇〇〇部売れてベストセラーだった)とか、文學はもうこころに響かないから駄目だとか、いろいろいわれている。本統に文學は死んだのか。残念ながら、斯様なことをいわれずとも、我々は『文學が死んでいることなんてとっくのむかしにわかっている』のである。

 ニーチェが『神は死んだ』といいフーコーが『人間は死んだ』といったことで、神や人間が死んだわけではない。ニーチェフーコーが歴史に登場するよりも曩時から、神や人間は死んでいたのである(余談だが、愚生はそれでも神秘主義的有神論者である)。文學において、これにあたる『死亡宣告』は、ソローキンの『ロマンは死んだ』(『ロマン』)であろうとおもわれる。何某というまでもなく、此処における『ロマン』は『長編小説』と英訳されることから『文學』そのものであると指摘されているのは有名である。読者諸賢のなかには、ブランショの『文学空間』こそが『文學の死亡通知』であるとか、ボルヘスの『伝奇集』序文が文學の死を標榜しているのだとか仰有るかたもいらっしゃるであろうが、這般のテクストも『ロマン』と同等であり、『神』や『人間』と同様に、『彼等が指摘する以前に文學は死んでいた』のである。生前、丸谷才一が『だれでもわかっていることを最初にいったものが歴史にのこるんだ。ニーチェは勿論、フロイトもあやしいね』というように主張していたはずだが、これとおなじことだ。

 問題は、『文學は死んでいるか』ではなく――最早『死亡宣告』はなされているのである――『文學の屍体を如何に解剖するか』である。此処において、役立つ批評は沢山存在するだろうが、個人的に、あまり評論は讀まないので、有名なところでロラン・バルトの「作者の死」をあげておく。ロラン・バルトの未読者には注意していただきたいが、現在『物語の構造分析』に収録されている「作者の死」というみじかい論文を讀むには、まず『零度のエクリチュール』を読了しておかなければならない。意地悪なバルトは、「作者の死」のなかで、なんら説明もなく『つまりエクリチュールが云云』といいだすからである。

 「作者の死」という惹句的な題名と短文であることとはうらはらに、この論文は非常に機知にとんでいる。一言でいえば『エクリチュールは無限の循環をなすのであるがゆゑに、作品を解読することは不可能であって、からみあったエクリチュールを永遠に解きほぐしてゆくしかない』のである。此処で『零度のエクリチュール 新版』を参考に、愚生なりに整理すると、『言語という縦軸と文軆という横軸におけるもうひとつの軸がエクリチュールで』あり『エクリチュールは歴史に縛られて』おり『文學とはエクリチュールである』ことになる。重要なことは、『ロラン・バルト自身がエクリチュールとはなにかよくわかっていねえ』ことである。『零度のエクリチュール 新版』の解説において、『バルトは最初、エクリチュールを文軆と同義で構想しており、最終的には文學そのものとかんがえた』というように非常にわかりやすく説明されている。

 バルトによって『作品の解読が不可能』といわれるとき、いうまでもない問題として、『作品を解読する批評家の地位も簒奪される』ことになる(批評家であるバルト自身は此処で『ゆらぐ』という曖昧な表現をしているが、現実には『うばわれる』といってもよいだろう)。これはいささか厄介な問題であって、『創作が不可能であるがゆゑに批評が不可能』ならば『文學は死んでいる』という『批評も不可能』になる。バルトが『文學の死』とはいわずに『作者の死』という爾時、『文學は生きているが無限に解読不能エクリチュールとして現前している』というニュアンスがふくまれるであろう。ただし、『生けるしかばね』としてである。バルトはさらに『作者は死んだ』という文脈で『読者も死んだ』とも指摘している。

 『神は死んだ』『人間は死んだ』というときの神や人間とは、ヘーゲルの言葉を拝借すると『ツァイトガイスト時代精神』である。この『時代』において、個人は画一的に定義されるわけではない。ニーチェがなんというと、敬虔な基督教徒諸賢は『神は生きている』というであろうし、フーコーがなんといおうと、原理主義的なヒューマニストは『人間は生きている』というであろう。といえども、文學の死はさらに悲惨な問題である。ヘーゲルのいう『時代精神』を『歴史』と類義語とすれば、バルトは『現代文學は現代にとりのこされているがゆゑに傑作は不可能だ』というような文脈を展開する。畢竟、エクリチュール(というよくわからないもの)は、個人の問題ではなくて、歴史の問題であるがゆゑに、『傑作は不可能』なわけだ。

 『問題は、『文學は死んでいるか』ではなく『文學の屍体を如何に解剖するか』である』と前述したが、文學の屍体を解剖してどうなるのか。あとは荘厳なる文學の葬殮をもよおすことであろうか。我々書き手はいまでも如何様にも小説を執筆できる。ただし、それは紫式部が『源氏物語』を揮毫したようにではなく、ピエール・メナールが『ドン・キホーテ』を執筆したようにであるかもしれない。ソローキンのいう『死んだロマン』とは、『十九世紀露西亜文學』であると指摘されるが、ソローキンは『ロマン』を上梓したのち、二十世紀のジョイス的――古典的――前衛文學へと転向した。ボルヘスは近現代文學の地平線のむこうがわへと翺翔し、『文學が死んだのちの文學』を多数発表したが、ボルヘスがのこしたのは、愚生をふくめ、ボルヘスの――良心的な――エピゴーネンであった。ラ・ロシュフコーのいうように、『すぐれた模倣とは、原典の欠点を誇張する模倣』である。

 本来ならば、『文學は生きている』という論旨を展開したかったのだが、近現代世界文學史を俯瞰すると、最初から『文學は死んでいる』としか主張できなかった。無論、大塚英志と死闘した笙野頼子のように文學を擁護する立場もある。就中、愚生の尊敬する丸山健二が『死んだのは文學もどきであって文學ではない』と断言し『真文學』をもとめて書きつづけていることは冀望である。愚生のこの駄文に続篇が書かれるのならば、『文學もどきではなく、我々が書くべき真文學とはなにか』を真摯に考覈してみたいとおもっている。生前、小林秀雄は『ピカソはまがいものである』というように主張したらしいが、我々も真摯に『本物とまがいものの文學を峻別』しなければならないのかもしれない。其処から丸山健二いわく『ようやく入口にたった文學』が濫觴し、『真文學』が夜明けをむかえるかもしれない。

 孰れにせよ、『作者が死んだとき読者も死ぬ』のであって、『文學は死んだ』というとき、『文學は死んだという評論そのものも死んでいる』ことをわすれてはならない。