Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

自著一覧

――長篇小説一篇

 

『愛~ある殺人鬼の人生』

 

【作品紹介】猟奇的殺人鬼により帝王切開された母親から誕生した『きみ』は、『研究所』の研究のために、脳髄に端末をうめこまれる。端末で『研究所』と意識がつながったきみは、異常な過去をもつために、平平凡凡なる人生をおくろうとする。が、自分自身の愛妻も猟奇的殺人鬼にあやめられてしまう。犯人への復讐をちかい、『越後百人ごろし』とよばれる大量殺人事件をおかしたきみは死刑宣告をうける。が、死刑執行後、死んだはずのきみが『天国』から『研究所』へと連絡してくる。ひとりの赤子の脳髄に端末をうめこんだことから、『世界百箇所同時多発テロ』をはじめとする世界規模の混乱が惹起され、人類が一致団結するまでをえがく、壮大なるSF長篇小説です。

【注意】一部暴力的な表現があります。苦手なかたは御注意ください。また、中途で重複する文章がございますが、故意にしていることですので、文學的表現として御諒承ください。乱丁ではございません。できるかぎり注意いたしましたが、宗教や政治的描写に誤謬がありましたらもうしわけございません。

 

 

 

――中篇小説四篇

 

『ゑ』

 

【作品紹介】わたしは『書物』とともに誕生した。比喩ではなく、一冊の『書物』を抱擁したまま母親から誕生したのである。いったん、『書物』と訣別したわたしは、『書物』に執筆されているとおり、やがて『書物』と再会し、『書物』の著者である『九頭龍一鬼』とたたかうため、全人類と一致団結する。森羅万象の運命が書かれているという『書物』と『書物』の著者に翻弄される世界をえがく中篇小説。『枠物語』『ゲーム・ブック』『第四の壁の崩壊』『パスティーシュ』『書簡体小説』など、あらゆるメタフィクションの技法を網羅した、『超メタフィクション』であり『実験文学の集大成』です。

 

 

『愛の遺族』

 

【作品紹介】西暦2010年、文部科学省所管の第八海洋調査隊は、マリアナ海溝界隈の古代遺跡から、《永久機関》とおもわれる、通称『オルゴール』を発掘した。が、『オルゴール』の暴走によって、《わたしたち》全人類は破滅してしまう。おなじく、西暦2010年、くだんの『オルゴール』の謎を解明せんとする《わたし》は、人類を救済するために、古代遺跡にのこされた古代文字の解読に邁進していた。人類は、破滅する運命であるのか。《愛の遺族》とはだれなのか。《わたしたち》全人類の魂魄の彷徨と、《わたし》の奮闘が交錯して一筋の物語となる、幻想SF小説。 【補筆】本作は、西暦二〇〇九年、著者二十六歳で執筆したもので、《闘勘十朗》名義で第百十四回文學界新人賞二次選考を通過した作品に加筆訂正したものです。

 

 

 

『無情百撰』

 

【作品紹介】西暦一九四五年、大戦末期、新潟県社会主義革命によって、共産主義国として独立した。敵対する日本国は憲法改正のうえで核武装し、新潟国への最終攻撃として核攻撃を遂行する。新潟市において終戦の報告をうけた《余》、水城守は、爆撃された故郷長岡市にて自決するために、新幹線に搭乗した。水城守は、恋人である港の死により、人間の魂魄がみえる能力を獲得しており、嘗て、魂魄となった港との恋愛を経験していた。港との青春を謳歌した、爆心地長岡市に逢着するとともに、水城守の胸中では、港や傍輩との青春の記憶が髣髴とされる。同時に、敗戦した長岡市では、自殺を決行するために、《百人の死霊と対話》することとなる。新潟県が日本から独立したという、架空の現代において、《余》の青春と生滅の哲学が交錯しながら、生きること、死ぬことの意味を追究する、偽史SF青春小説。 【補筆】本作は、西暦二〇〇四年、著者二十一歳で執筆したもので、《天野千影》名義で第百回文學界新人賞一次選考を通過した作品に加筆訂正したものです。

 

 

『Α∧Ω(あるふぁかつおめが)』

 

【作品紹介】《第二次九一一》で地球を崩壊させた究極の存在《Α∧Ω》と最終決戦をする全人類。《第二次九一一》を勃発させんとする宗教団体を壊滅させんとする藝術大学生。《Α∧Ω》と聖一致するがために自害せんとする日本人青年。《Α∧Ω》との摩訶不思議なる恋愛をする大学講師。ナチスドイツ最終兵器《Α∧Ω》を殲滅するがためにドイツに闖入したイギリス特別小隊。《Α∧Ω》の存在を追跡するうちに連続殺人事件の犯人とされたキリスト教異端者。最強の武士《あるふあかつおめが》と一騎打ちせんとする平安時代の法師武者。宇宙内の図書館をめぐり《Α∧Ω》の謎を解かんとする奇妙なる存在である字軆。――究極の存在《Α∧Ω》をめぐり、SF、ホラー、私小説、恋愛小説、戦争小説、アンチミステリ、時代小説、幻想小説という、ジャンルを横断した、八つの物語を、八つの文体で描破する。 【補筆】本作は、西暦二〇一二年、著者二十八歳で執筆したもので、《闘勘十朗》名義で第五十七回群像新人文学賞小説部門一次選考を通過した作品に加筆訂正したものです。

 

空虚の特異点――カフカあるいは『小説を読む』ということ

 カフカはわかりやすい。
 わかりやすすぎる。

 

 たとえば『変身』における変身を愚生は『資本主義社会において労働者が働けなくなったらどうなるのか』という象徴というか寓喩として読んでいておなじく『城』における城は人間の到達不可能なる唯一神の象徴として『断食藝人』における藝人は藝術家一般の象徴として受け取っていて斯様に瀏覧すればいかにも『わかりやすく』小説が読めるのだが輓近保坂和志氏の随筆『小説の自由』シリーズを拝読したところ『三島の『金閣寺』における金閣寺カフカの『城』における城というものを象徴的に読むのは本来の読み方ではない』というようなことが揮毫されており愚生は『カフカは本統はわかりやすくなかったのだ』と反省するとともに『ならばカフカのような瞥見すると『わかりやすい』小説はいかに読むべきなのか』という疑問が醞醸されたのである。

 

 まず愚生は保坂和志氏がよく『小説は音楽である』というような修辞法をもちいるので『カフカを音楽として読む』あるいは『聞く』ということを考覈しカフカの小説を音楽のコード進行や旋律やリズムといったものとして瀏覧せんとしたものの斯様にすると漢詩や和歌や十四行詩やルバイヤートといった詩歌が本質的に『音楽』であることが髣髴され其処からおなじく保坂和志氏による『散文は韻文とはまったく異なるものだ』というような鮮明たる旗幟が翩翻としていよいよ『これは厄介な問題だぞ』とおもわれた。

 

 たとえば前述のとおり『金閣寺』の金閣寺天皇陛下天照大神の象徴などとしてまた『城』の城を唯一神や絶対的なる真実の象徴などとして読むことを『禁じる』のは稀有なる例ではなく上記の二例が宗教的中心性を『髣髴させる』ことから聯想されるようにこれは『作品の構造』および『象徴の定義』という二面においてあきらかにデリダのいう階層秩序的二項対立をなしておりつまり『城』の聳立している街衢がまさに然様なる形式をもっているように『何某かを中心とした同心円をえがいている』ことになりつまりは『脱構築可能』であることになる。

 

 畢竟斯様なる読み方では『中心Aの絶対性を流動的に転覆』させることになるのだがすごいのは斯様な読み方に対しても保坂和志氏は『非――A』は『A以外のすべて』ではなく『AのなかにふくまれるAならざるものの集合』であると標榜しこうなると『中心Aを脱構築するのは中心Aの半永続的存在を肯定すること』あるいは『中心Aの『中心性』そのものを永遠に肯定すること』になってしまうのであり保坂和志氏がポストモダンの中枢概念そのものを脱構築しているとまでは大袈裟であるがゆえにいえないのだが曩時にドゥルーズラカンの講座に関係していたことを『恥じている』という保坂和志氏の主張には同感を禁じ得ない。

 

 其処で愚生が髣髴したのは『文學空間』や『来たるべき書物』におけるブランショ的な読み方であり――これはソシュール言語学の知識があるかたには当然のことかもしれないが――ブランショがいうには『猫という言葉が指し示す猫はこの世界に存在しない』がゆえに『言葉』には『内容』がなく――シニフィアンにはシニフィエがないともいえる――小説家は『内容』のない『言葉』をつらねる仕事なので『小説は書かれるほどに増殖してゆく無尽蔵の空虚』であることになり前述のデリダのくだりと関聯させればブランショの考覈する小説における中心性とは『空虚』というか『虚空』というかそのようなものなので逆理をとれば『小説は根源的に脱構築された藝術』であり『脱構築するべき中心にはもはや脱構築さえ不可能な『空虚』しかない』ことになる。

 

 つまり愚生が逢着した暫定的な『カフカの読み方』のみならず『小説の読み方』は『中心性としての空虚を読む』ことになりその『中心A』を成す絶対的なる存在は小説のなかに限っていえば『存在しない』ことでのみ存在することになり其処には暗黒の造物主アザトホースのような『言葉』しかなくブラックホールの中心としてシュヴァルツシルト半径という重力の特異点があるように『小説を読む』ということは『小説という空虚の特異点に墜落してゆくこと』だといえるのではないかつまり『『謎の男トマ』が『海』で溺れるように小説という空虚で溺れること』あるいは『『海』が『謎の男トマ』を溺れさせるように小説を空虚で溺れさせること』が元来の小説の『読み方』ではないかといえるのだ。

 

 なるほどそう読むと小説は『わかりやすい』。
 結句カフカは一廻りして『わかりやすい』小説になったのである。

なぜ小説を書くのか~小説を書くために生まれたということ

 中島敦の「名人伝」という短編を十回は読んだはずだ。

 よく「山月記」とともに文庫化されているのですでに瀏覧された読者諸賢もおおいかとおもわれるが此処で梗概を紹介すると『邃古中国にて弓矢の道を窮めんとした男が巍峨たる山嶺に住む師匠のもとで修行し故郷へ帰還したら弓矢がなにかすらわからなくなっていた』というもので『弓矢の道を窮める境地』が『弓矢そのものをわすれること』であることを『さとり』と呼んでよいかわからないがともかく愚生が本稿で論じたいのは『さとり』についてである。

 仏教における涅槃としての『さとり』はそれによって『一切皆苦の三千大千世界をめぐる輪廻転生の円環から離脱するに到ること』なのだが此処では斯様なる『さとり』という概念を譬喩的にもちいて『なぜ愚生は小説を書くのか』というつまらないといえばつまらないであろう随筆を揮毫したいのである。

 こうして起筆してみたところで『さとり』について愚生が考覈したのは『人生のあらゆることにはさとりがある』ということであり曩時に千利休が『出がらしの味がわからなければ茶道を窮めたとはいえない』といったらしいがこれは『弓矢そのものをわすれる』ように『茶そのものをわすれる』わけではなく『窮極に茶ではない茶に茶を見いだす境地』とでもいおうかたとえばロックバンド黒夢のボーカル清春はヘビースモーカーなのだが喫煙者の巷間では有名な『ピアニシモ』という一番よわい種類の銘柄を喫っているらしい。

 そういえば生前の川端康成の邸宅に御友人が来訪した爾時に極端に無口な川端は友人と対峙するかたちで鎮座しながら二時間にわたって一言もしゃべらずに友人が「ではそろそろ」と踵をかえそうとしたところで「まあもうちょっといいじゃないか」というようにひきとめたという逸話を瞥見した記憶があるがこれは『真の会話とは沈黙である』というか厳密には『真の会話としての沈黙にも相手が必要』であるということであって愚生のいいたい『さとり』とは斯様な状況にちかい。

 上記の『出がらし』にせよ『ピアニシモ』にせよ『沈黙』にせよ斯様にさまざまな範疇において『さとり』というものはあるわけで二十年間アマチュア作家をつづけてきた愚生は輓近『おれはもうさとりに到るために小説を書いているのではないか』とおもうようになったわけだ。

『すべてのことにはさとりがある』のならば『すべてのことはさとりに到るまでの修行である』ともいえるわけでゆえに愚生が小説を書くのも『小説におけるさとりに到るために修行をしている』ということにほかならない。

 わかりやすく換言すればアドラー心理学において『勝負を降りよ』また『勝負をやめたとき他者はたんなる他者になるのではなく仲間になるのだ』といわれおなじくアドラーによると『勝負は縦の関係であり本統の人間関係は横の関係でなければならない』ということらしくつまり愚生は『新人賞や文學賞といった縦の勝負はもういいから巨億の作家の仲間たちと横の関係で尊敬しあいお互いに窮極の文學を目指したい』とおもうようになったということなのだ。

『すべては横の関係』なのでプロフェッショナルもアマチュアも関係なく歴史上の文豪も闇から闇に葬られた無名の作家もホメロスジョイスブコウスキーも愚生も読者諸賢も関係なく『おれたちの理想とする小説を書こうぜ』というただそれだけのことを本稿では書こうとおもっただけでありそれはけっして無意味なことではなく人生のすべてがすべてのさとりへの道程であるように小説を書く以上小説でさとるしかないわけで斯様なる磊砢たる道程をえらんだ以上愚生も『生涯を小説においてさとることに捧げよう』という――本統にできるかわからないが――『小説宣言』をしてみようとおもっただけのことである。

 畢竟愚生は『小説を書く』ために生まれてきたという一種の楽観でありまた一面では悲観であり厭離穢土であり欣求浄土の精神に到ったというそれだけのはなしなのだがなぜか『おれの人生は小説のためにある』と極端といえば極端に蹶起してみると――おそらく『そのほかのことはどうでもいい』というこれも一種の『さとり』に到るためか――胸臆がぬくもるところがあって『それもまあわるくはないな』とおもわれるのだ。

 逆説的だが『人生をなにかに捧げる』ことこそ『人生』なのかもしれない。

落選歴30回以上の愚生による『新人賞落選の苦痛』傾向と対策

輓近、苫米地英人氏の著作を劉覧していたら、『本統にすぐれている人間は、社会的に評価されていなくても、内面では滅茶苦茶に自己肯定感が高い』というような一節に出逢った。

そこで、愚生はこれを『新人賞に落選したときの苦痛への対策』として利用できないかとかんがえたのである。

愚生は十七歳から二十年以上にわたって、各新人賞に応募してきて、落選歴は三十回を凌駕する。

無論、ほとんどは一次落ちだ(つまり雑誌やネットに名前さえ掲載されなかった)。

経験者諸賢はわかってくれるだろうが、『新人賞の中間発表をみて自分の名前がなかったときの苦痛は半端ではない』。

陳腐な譬喩かもしれないが、われわれの作品はわれわれの子供のようなものである。

われわれの作品を落選させられる苦痛は、われわれの子供が猟奇的殺人鬼に惨殺された苦痛に匹儔する。

そこで、以下、愚生がこれまでためしてきた、落選の苦痛に対処する方法や、現在、考覈している方法などを臚列したいとおもう。

読者諸賢に役立てられればと存ずる。

 ◇

1 まず、小説を書く
ここからすでに、苫米地氏のいうように、『自分は人類史上最大級の天才だ』とおもうことである。
これに『嘘』はない。
そもそも、新人賞に応募できるだけの枚数を、文字列で埋めただけでも異常なことである。
あなたは実際に天才だということをわすれてはならない。

2 小説を応募する
この時点から、すでに、『落選したときのこと』をわすれないでおく。
つまり、『おれやわたしの書いた傑作は、選良しか理解できないのだから、どうせ落選するだろう。が、それはおれやわたしの作品の価値とは無関係だ。おれたちの作品の価値はおれたちが決める。他人が決めるものではない』とおもいながら、応募するのである。

3 中間発表
ここでは、だいたい、雑誌やWEBで結果を確認することになる。
つまり、『中間発表の頁をひらくまでに、物理的に時間が生じる』のだ。
ここでも重要なのは自己肯定感だ。
『どうせ、おれたち天才の書いた作品が理解されるはずがない。どうせ一次落ちだろう。もしかしたら、すこしでも眼力のある評者が予選を通過させてくれているかもしれない。が、それはおれたちの作品の価値とは無関係だ。おれたちの作品の価値はおれたちが決める。他人が決めるものではない』などとおもいながら、ゆっくりと頁をひらくのである。

4 落選決定
おそらく、読者諸賢の傑作は落選していただろう。
作品名も筆名も掲載されていなかっただろう。
もしかしたら、予選だけは通過しているかもしれないが、ほかの応募者に敗衄した屈辱は鬱勃たるものがあるだろう。
そこで、矢張り自己肯定感だ。
『やっぱりな。おれのかんがえたとおりだ。おれのような天才の書いた傑作がやすやすと理解されるはずがない。それはおれの作品の価値とは無関係だ。おれの作品の価値はおれが決める。他人が決めるものではない』などとおもって、頁をとじるのである。

5 最終候補にのこる
意想外に、ここが厄介なのだが、二十年以上応募しつづけると、まれに、最終候補にのこる場合もある。
愚生は一度だけだが、その歓喜はすさまじいものがあった。
これが厄介だというのは、結局落選したとき、一次落ちでもなく受賞でもない、宙ぶらりん=サスペンスな状況におかれるからだ。
愚生は無論、最終選考で落選したが、これは本統に稀有なパターンなので、心理的な対処法はまだおもいついていない。
鯨統一郎氏などのように、よくあることだが、『一度、最終候補にのこったのだから、この新人賞には脈がある』とはかぎらない。
愚生自身が経験しているのだが、一度、最終候補にのこっても、爾後、一次通過すらできない、という新人賞もおおい。
(鯨氏は、人生ではじめて最終候補にのこった新人賞にふたたび応募し、一次落選したが、出版社から電話があり、一年くらいのタイムラグがあって、デビューした)
僭越ながら、愚生からいえることは、『新人賞は実力というよりは相性である。自分の書きたいものを書いて、相性のよい新人賞に応募する』ことが重要である。

 ◇

以上、これでは、出版社を破家にしている、とおもわれるかもしれないが、二十年以上、アマチュアをやってきた愚生は、読者諸賢、アマチュアの傍輩たちの味方をしたい。

ひとつ、重要なことを附言しておけば、『自分の価値は自分で決めるもので、他人が決めるものではない』というよくいわれる箴言は、まぎれもない真実だということだ。

曩時に瀏覧した精神医学の解説書に『『自分の酒をひとに評価してもらって安心する』(漱石)というような、他人本位は神経症的である。』という一節があった。

饒談ではなく、自分の作品の価値を他者の評価にゆだねていると、神経症や精神病になりかねない。

実際に、某新人賞の落選をきっかけに、慢性の不眠症――これは地獄だ――になって、現在にいたる愚生がいうのだから間違いない。

 ◇

前述した対処法は、誇大妄想的な現実逃避かとおもわれるかもしれないが、実際に、傑作が文學賞で落選することは日常茶飯事である。

ノーベル賞が典型的なように、トルストイカフカボルヘスカルヴィーノジョイスプルーストナボコフブランショも――枚挙にいとまがないが――これら『超ノーベル賞レベル』の作家たちはことごとく落選してきた。

つまり、『レベルがたかすぎるとだれにも理解されない』というのは、ドラえもんジャイアン的な誇大妄想ではなく、『事実』なのだ。

丸山健二氏のいうように、『真の文學が投稿されたら、出版社が理解できないので、百%落選する』のである。

この残酷ながら甘味なる『現実』をとくと凝視して、いつか、奇蹟的にあなたの作品が絶讃される日を翹望している。

これは、嘘ではない。

哲学メモ~ショーペンハウアー~人生の苦しみからいかに解放されるか

 輓近、スピノザの解説書を劉覧し、全体をメモしておこうとしたところ、『エチカ』についてはWikipediaでの解説が充実していて、ほとんど、加筆するところがなく、参考になった。

 そこで、スピノザに類似するショーペンハウアーの解説書を読了し、おなじくWikipediaでの解説を参考にしようとしたところ、『意志と表象としての世界』については、各章の概論しか執筆されておらず、全体像がぼやけていた。

 これでは、読書の手助けにならないのではないか。

 ゆえに、ここでは、――ショーペンハウアー哲学書著作権はきれているとおもわれるので――愚生が解説書を読んで、同時にまとめておいたメモを、ほとんど、そのまま発表したいと存ずる。

 あくまでも、愚生は直截にショーペンハウアーの著作を劉覧したわけではないので、これは『解説書の解説書』となるであろうが、これから、『意志と表象としての世界』を御覧になる読者諸賢にも、すこしは役立てると存ずる。

 無論、愚生はショーペンハウアーの専門家どころか、真面目な読者ですらないので、以下のメモの信憑性については、読者諸賢善男善女の知性に峻別をゆだねるしかない。

 また、ここにおける解説書とは、おもに講談社現代新書100『今を生きる思想 ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』梅田孝太著であるので、できれば、興味をもたれたかたは、本稿を参考にして、こちらを劉覧し、『意志と表象としての世界』に挑戦されることを冀求する。

 補足しておけば、ショーペンハウアーの哲学は、『人生の苦しみ』を解決するためのものであり、いわゆる厭世主義からみた人生論である。

 人生の苦しみに懊悩しているかたがたのために、以下の概論や、解説書や、『意志と表象としての世界』が役立つことをこいねがう。

 ◇

 前提として、ショーペンハウアーの思想はカントの哲学を基礎としている。

 ここで重要なのは、カント哲学において、『われわれは世界の真実のすがたである物自体にはふれられず、現象として世界を体験することしかできない』ということである。

 人間は、前述したカントのいう現象、ショーペンハウアーのいう『表象』としてしか、世界を認識できない。

 つまり、われわれは、世界の客観を、われわれというモニターに、主観としてうつしているにすぎない。

 そのうえ、われわれは、時間、空間、因果律という根拠律によって、世界を主観的にみているが、客観的にみれば、世界に時間、空間、因果律という、人間のつくった尺度が存在する証拠はない。

 愚生補遺――時間、空間、因果律は、2つの点が存在するから、その狭間に生まれるものにすぎない。

 つまり、世界には、時間も空間も因果律もないかもしれない。

 結句、われわれは、表象の世界という贋物を体験しているわけだが、それを体験するわたしだけは――意志は表象ではなく、唯一直截に体験できるので――本物である。

 わたしの体は表象だが、わたしの意志は表象ではないので、意志と体に因果律はない。

 ここで、ショーペンハウアーは、意志が体をあやつることにおいて、意志と体は一体であるという。

 体とは意志の表象であり、表象ではない意志が、表象としての世界に存在するために、体という媒体となる表象がある。

 意志は、表象としての体からの要求で、生きよう生きようとうごいてゆく。

 これが、生きようとする無目的な意志である。

 愚生補遺――本来は『盲目的な意志』と訳されるが、これは差別的なので『無目的な意志』とすべきだという。

 意志と体のアナロジーから、あらゆる表象には、意志があるとおもわれる。

 あらゆる表象の意志が、ひとつの意志に輻輳されて、意志としての世界が見出される。

 つまり、われわれは、贋物の表象の世界を追求する、目的のない、生きようとする意志にうごかされるだけの、無意味な人生を生きることになる。

 これが『意志と表象としての世界』である。

 そこで、ショーペンハウアーは、クライマックスとして――表象の世界はもちろん――意志の否定、つまり涅槃を説く。

 そのために、藝術や、――すべてのものの苦しみを自分のものとして感じる――共苦や宗教がかんがえられる。

 藝術は、表象としての世界の設計図であるイデアを明澄に体験させてくれる。

 ゆえに、藝術の才能とはイデアを見出す能力のことであり、凡人にもわずかながらそれができるから、藝術に感動できる。

 たとえば、正義と人間愛、だれをも害さず万人をたすけよ、などということである。

 共苦は、あらゆる表象が、根源的にはひとつの意志だと知ることから発する。

 つまり、苦しんでいる他者も、自分と一体の意志だから、その苦しみを感じられるのである。

 が、共苦は、自分をすてて他者を救わんとする利他的行為であり――結局は一体であるわれわれの意志をまもるから――完全な意志の否定ではない。

 完全な意志の否定は、宗教によってなされる。

 愚生補遺――ショーペンハウアーは、当時、欧羅巴では異端視され、恐怖されていた東洋思想、とくに仏教から影響をうけていた。

 たとえば、聖者たちは、意図した自発的な貧困などにより、禁欲する。

 完全に自己を放棄したとき、諦念、つまり涅槃にいたる。

 が、意図的に涅槃にいたることはできない。

 むこうからやってきた諦念を極めることによって、われわれは、無の境地にいたる。

 斯様にして、われわれは『もっともっと』という、欲望の連鎖である意志からまぬかれる。

 ここにおいて、マーヤーのヴェール=『贋物の世界』ははぎとられるのだ。

 これが、意志と表象としての世界の全貌である。

『永遠平和のために』とアナーキズム~自然状態と戦争

 カントの『永遠平和のために』は、曩時に読了したが、あまりに難解なので、無知蒙昧なる愚生には充分に理解できなかった。

 といえども、輓近の世界情勢を見霽かして、『いまこそ再読しなければならない』と愚考し、まず、解説書をひもといてみることにした。

 そこで、カントは『人間の自然状態は戦争である。問題はなぜ戦争がおこるかではなく、どうすれば戦争をおきなくさせるかである』というようなことをいっていた。

 これは、ホッブズの『自然状態は万人の万人にたいする闘争である』という、いわゆる社会契約説からの敷衍だといわれている。

 ホッブズのほうが有名なので、こちらを意識してもらえるとわかりやすいと存ずるが、愚生は曩時より、この『万人の万人にたいする闘争』説に懐疑的であった。

 そもそも、ホッブズがいうには、自然状態において、人間はおたがいに暴力で権利をうったえるので、彊梁なるものだけが生きのこるようになった。

 そこで、万人が生きる権利をわかちあえるように、法と秩序を豎立して、社会や国家=リヴァイアサンが誕生したというわけだ。

 ここが、愚生には納得いかない。

 人間がおたがいに暴力で権力を隴断していたのならば、自然の道理として、弱者が『社会契約をしよう』といっても、腕力という一種の既得権益があるので、強靱なる人間が『社会契約などさせないように暴力で壅塞阻止する』はずなのである。

 理窟をつきつめれば、『万人の万人にたいする闘争』常態から、社会契約が誕生するはずはないのだ。

 ゆえに、愚生は、たしかルソーやロックがいっていたように『自然状態において、人間は平和な関係にあった』というような楽観論を標榜している。

 つまり、シュミット風にいえば『戦争こそが常態であり、平和が例外』なのではなくて、『平和が常態であり、戦争こそが例外である』といいたいのだ。

 斯様に論ずると、たんなる性善説だといわれるかもしれないが、一応、ここで性善説にたいする誤解をといておきたい。

 そもそも、『人間はみな邪悪なるものだが、それは、人間が生まれつき善であって悪に靡いてゆくためか、それとも、人間が生まれつき悪であるためか』という邃古中華文明における議論において、孟子が前者の性善説を、荀子が後者の性悪説を標榜したことから、これらの対峙的な思想は誕生した。

 つまり、よく誤解されるように『人間の本性は善か悪か』という問題ではなく、『人間はなぜみんな悪なのか』というのが性善説性悪説の淵源と結論であり、よって、愚生の楽観論とは相容れないものである。

 さらに余談だが、性善説性悪説の対峙は、結句、二十世紀に這入って、サルトルの『実存は本質に先立つ』という言葉で決着がついた。

 つまり、人間は本来透明なる存在であり、善でも悪でもなく、善にせよ悪にせよ、悲観主義にせよ楽観主義にせよ、躬自らを未来へ投企して醞醸させてゆくものだということだ。

 閑話休題

 ほとんどの紙幅を余談についやしてしまったが、つまり、『人間って自然にしておけば、そんなに悪いものじゃないよ』ということである。

 結局のところ、愚生は本質的にアナーキストなのであろう。

 中学生時代、がちがちの右翼だった愚生が、左翼に転向したのは安部公房からの影響であり、さらにアナーキストになったのは、丸山健二からの影響であろう。

 無論、丸山健二のいうように、『アナーキズムは藝術家たちのゆめであって、現実ではない』のだろう。

 ゆえに、愚生はあくまでも『本質的』にアナーキストであるにすぎない。

 が、今回の随筆から『人間は自然状態でも平和な関係をむすべるのではないか』と、読者諸賢にいささかでも、微衷を斟酌していただけたら、とおもうのである。

 またまた余談だが、愚生はひきつづき、解説書から『永遠平和のために』を再読してゆくつもりである。

『オデュッセイア』は異世界ものである~異世界ものから第二の純文学へ

 愚生の筆名『九頭龍一鬼』に似ているということで、興味をもち、九頭七尾氏の異世界転生ものを読んでみた。

 SF作家をこころざしているくせに、普段は、純文学ばかり読んでいる愚生にとって、異世界ものを劉覧するのもはじめてであった。

 今回の読書体験は、予想をはるかに凌駕する衝撃となる。

 ひとことでいうと、『異世界ものには文学史が存在しない』ということである。

 異世界ものはあきらかにTVゲームを正典=キャノンとして成立しており、その文脈には北村透谷も二葉亭四迷綿矢りさも夾雑しない。

 無論、それがよいとかわるいとかいう問題ではない。

 かつて、高橋源一郎の著作に『すべての物語は『オデュッセイア』の亜種である。つまり『ことなる世界に旅立って帰ってくる』という構造である』と書いてあったと記憶する。

 異世界転生もの、異世界転移ものは、『ことなる世界に旅立って帰ってくる』という構造すらもっていない。それは『ことなる世界に旅立つ』だけの物語であり、つまりは『黄泉の国への旅立ち』であって、おおくの異世界ものが主人公の死からはじまるように『殪死の隠喩』である。

 現代の日本人が、岩波文庫集英社文庫で『オデュッセイア』と『ユリシーズ』を併読すれば明鬯だろうが、『オデュッセイア』は大衆文学であり『ユリシーズ』は純文学である。

 異世界ものがわれわれを驚愕せしめるのは、前述のとおり『そこに文学史が存在しない』からであり『神話のかわりにTVゲームが正典=キャノンとされている』からである。

 異世界ものが、いかなる文学史にもぞくさないという、『驚異的』な構造をもっているのは『オデュッセイア』が『驚異的』な構造で出来ているのと同様である。

 つまり、ホメロスギリシャ神話から『オデュッセイア』を構築したのとおなじく、異世界ものはTVゲームから帰納されたものであって『それ以前に文学史が存在しないところから立ち上がっている』ことが共通するのである。

 重複するが、重要なのは、愚論において『TVゲームより邃古希臘神話のほうが崇高である』といいたいのではなく『TVゲームも神話も脱構築可能な階層秩序的二項対立にすぎない』ということである。

 ここで、『オデュッセイア』が大衆文学であり『ユリシーズ』が純文学であるという愚論を髣髴してもらいたい。

 はなしは簡単で、大衆文学は文学史をもたず、純文学は文学史のなかにしか存在しえないのだ。

 ここにおける純文学の代表例として、スターンの『トリストラム・シャンディ』や、ボルヘスの『伝奇集』、ソローキンの『ロマン』などを髣髴いただければ旗幟鮮明とされるだろう。

 これらの作品は、大衆文学という常態があるからこそ存在がゆるされる例外なのである。

(『常態はなにも証明しない。例外こそがすべてを証明する』シュミット『政治神学』)

 同時に、それが例外であるがゆえに常態を定義する重要なものさしとなる。

 神がわれわれの痛みを計るものさしであるように(ジョン・レノン「GOD」)、純文学は大衆文学の欠点を計るものさしというわけだ。

 この意味において、浅田彰の指摘するように『純文学があるから大衆文学がある』のではなく、愚生は『大衆文学があるから純文学が誕生したのだ』と主張したい。

 ここが面白いところで、以上の愚論が正鵠を射ているのならば、やがて、異世界もの=新種の大衆小説が『歴史』をもちはじめたとき、おそらく、『オデュッセイア』から『ユリシーズ』たち純文学が誕生したように、異世界ものから将来の純文学が発軔するとおもわれる。

 曩時に量産された騎士道物語から『ドン・キホーテ』が誕生し『ドン・キホーテ』からボルヘスが誕生したようにである。

 僥倖にも、いまもなお、異世界ものの人気は退嬰していないようにおもわれる。

 が、愚生がおもうに、異世界ものの本統の可能性は『異世界ものが頽廃したのち』に存在する。

 つまり『異世界ものがだれにも読まれなくなった』とき『異世界ものはついにひとつの文学史』となり『異世界ものから第二の純文学=第二の日本文学が生まれる』であろうということである。

 愚生は無知蒙昧だが、すでに異世界ものはすたれはじめているという言説も存在するようだ。

 が、愚生はこれからの異世界ものの可能性に期待したいのである。

 追記――

 以上、異世界ものが文学史となったとき、つぎなる純文学が生まれる、と議論してみたが、推敲中『あれ』とおもった。

 異世界ものとおなじ状況にあった、曩時のケータイ小説が、結句、文学史を構築することあたわず、『純文学化』することができずに退嬰していった歴史を髣髴したのだ。

 ただし、ケータイ小説の文脈に、『文學界』出身の著者による『世界の中心で愛をさけぶ』が存在し、これが成功したことは稀有ながら事実である。

 あとは、今後の歴史が審判をくだすであろう。

あなたは核のボタンをおすだろうか~ある悪夢の記録

 今日、悪夢をみた。

 これは、その悪夢の記録である。

 まず読者諸賢にことわっておきたいことは、愚生は長年の反核派であることである。

 つまり、この悪夢のなかでの『判断』は、『夢』のなかで、根源的な慾望に抑止がきかなかっただけなのかもしれないということ、また、フロイト的にみて、此処における核兵器が、性的な意味しかもたないかもしれないということだ。

 一応、本エッセイを執筆した理由は後述するが、そもそも、この『夢』にそれほどの『意味』があるのかさえ峻別できない。

 ただ、この悪夢から目覚めたのち、この『夢』はなんらかのかたちで記録しておくべきだ、という、つまらない使命感が鬱勃となっただけである。

 のみならず、もしかしたら、読者諸賢の一部だけにでも、なんらかの意味をもつものであるかもしれないと考覈し、今回、本エッセイ集にくわえることとした。

 本エッセイには、戦争の描写、政治的な描写があるので、『閲覧注意』であることをお断りしておく。

    ◇

 こんな夢をみた。

 燦爛たる蒼穹のもと、わが国の首相が演説をしている。

 輓近、国民投票によって核兵器保有国となったわが国の首相のかたわらには、アタッシェケース型の『核のボタン』を掌握した扈従が彳亍している。

 然様な状況のなか、首相の演説を傾聴していた巨万の群衆の携帯電話に緊急速報が這入る。

 なぜか愚生は愛用のスマートフォンをもっておらず、他人の携帯電話の画面を窃視する。

 某国(これは本統にどこの国かわからない)の海軍の軍艦が、大編隊をなして、瀲灔たる太平洋沖から、わが国の首都へと総攻撃をなさんとしているという。

 おそらく、喫緊の対応をせまられたらしい首相は、造次顛沛もなく、専用車輌にのって首相官邸へと疾駆してゆく。

(現実にはありえないことだが)この混乱のなかで、政府関係者の幾許かが演説会場にとりのこされ、其処には『核のボタン』を掲撕したひとりの扈従もふくまれていた。

 つまり、『敵国の艦隊に核攻撃するかどうかの決断が、其処にいた一般市民たちにゆだねられた』のである。

 無論、ほとんどの黎民たちは核攻撃に反対する。

 然様な状況のなかで、愚生は獅子吼する。

 いわく「たしかに核攻撃すれば、某国の軍隊に大量の死者がでるでしょう。ですが、ここで核攻撃しなければ、それ以上の数の被害者がわが国にでます。のみならず、われわれの国家同士が戦争状態におちいれば、本格的な核戦争になる可能性さえあります。この『最初の一撃』でこれらの被害が阻止できるのならば、いま『攻撃すべきです』」と。

(目覚めてからかんがえたが、この理窟はとおらない。TFT戦略といって、おたがいの国家がほぼ同量の核兵器保有する、いわゆるランチェスターの法則にのっとった軍事力であった場合、かならず、『核兵器で先制攻撃したほうが敗北する』というのが常識である。ゆえに、核兵器は『先制攻撃につかえない』のであり、これがいわゆる『核の抑止力』となる)

 巨万の黎民が喧喧囂囂侃侃諤諤とするなか、愚生は蹶起し、『核のボタン』をおす。

 隣人の携帯電話の画面には、空中で核弾頭が炸裂し、プルトニウム核分裂による焱燚たる火炎の団塊が艦隊をのみこみ、艦隊ごと軍人らの肉体が溶解してゆき、きのこ雲が聳立する一伍一什がうつされている。

(きのこ雲は、核兵器や水爆などが炸裂した爾時、強烈なる衝撃で、爆心地に真空地帯が発生したうえで、真空が大量の瓦礫をのみこむことで誕生する。ゆえに、海上核兵器が炸裂した場合、きのこ雲ができるかは不明である)

 斯様にして、戦争は壅塞阻止され、愚生は救国の英雄となる。

 爾来、愚生は各地で、あるいは絶讃され、あるいは皮肉をいわれた。

 斯様な状況で、政府機関に招聘された愚生は、防衛大臣とお会いする。

 大臣はいう。

「わが国をお守りくださりありがとうございます。あなたの御蔭で巨億の無辜の生命がたすかりました。失礼ながら、あなたの身辺調査をさせてもらいましたが、あなたがこんなに給料のひくい労働者だとはおもいませんでした。今回、宮内庁の決定で、あなたへの褒章および賞金の授与が決定いたしました。これで、生活も楽になるでしょう」と。

 愚生はいう。

「いいえ。お金はいりませんし、ぼくはもっと給料をやすくしてもらうべきです。なぜなら、『ぼくは大量殺人鬼だからです』」

 ここで目がさめる。

    ◇

 所詮は『夢』の出来事なので、斯様に整理すると、支離滅裂で荒唐無稽におもえるが、無論、夢のなかの愚生は、これが『現実』だとおもっていたし、『本気』でこの状況に対応していた。

 つまり、愚生は此処で、真摯なる道徳的、あるいは政治的判断をせまられ、本心から道徳的、あるいは政治的な判断を『した』のである。

 前述のとおり、愚生は基本的に反核派である。

 斯様な愚生でも『核のボタン』をおすべきか、おさざるべきかの状況で、ボタンを『おした』のだ。

 この『核兵器にたいする人間の心理の変化』の証左として、今回、めずらしく、夢日記を本エッセイ集に掲載することにした。

 愚生は、あえて、この問題に決着をつけようとはおもわない。

 ただ、道徳的、あるいは政治的な判断を、翼の左右を問わず、読者諸賢にゆだねたいと存ずる。

 つまり、『あなたもおなじ状況にたたされたら、ボタンをおすだろうか』ということである。

 このエッセイが、わが国が核兵器保有すべきか如何かという問題の一助となればよいと存ずる。

 本エッセイを劉覧されて、気分を害された読者がいらっしゃれば、まことにもうしわけない。