自著一覧
――長篇小説
『愛~ある殺人鬼の人生』
あなたは、世界が平和になってくれればとおもっていますか。
これは愛によって世界を平和にした殺人鬼の人生の物語です。
ある殺人鬼の人生をえがいた第一部と、現実の世界が死後の世界とつながったことで世界平和が実現されてゆく第二部で構成された、壮大なる小説です。
この作品から、あらゆるものを愛する崇高さを感じ取ってくださればうれしいです。
――――
愚生の文章は、愚生の理想を実現するために、やや難読になっているところがございますが、それは品質の高さを表現していると自負しております。
『天と地と光と蔭と生と死と巨億の愛と我の孤独と。』
あなたは、超ひも理論を御存知ですか。
この世界のすべての物質は、極小のひもでできている、という理論です。
もし、この世界の根源であるひもそのものが見えたら、人生はどうなるでしょうか。
この作品は、世界がひもで見える三人の男性と、その三人の男性に愛された女性、さらに一本のひもそのものの視点からえがかれる、壮大なる大河小説です。
人類史規模でえがかれる物語から、愛の崇高さを感じ取ってもらえたらうれしいです。
――――
愚生の文章は、愚生の理想を実現するために、やや難読になっているところがございますが、それは品質の高さを表現していると自負しております。
――――
また、本作は群像新人文学賞の一次選考を通過した作品です。
今後、群像新人文学賞に応募されるかたには、予選通過のよい参考になるかと存じます。
――
一度、間違えて完成前の原稿をアップロードしてしまいました。
おそらく、現在は直っているはずですので、完成前のファイルをダウンロードしてくださったかたには、混乱させてしまって申し訳ございませんでした。
――中篇小説
『ゑ』
あなたは、小説のなかの登場人物の気持ちを考えたことがありますか。
もし、この世界が小説のなかの虚構の世界にすぎなかったとしたら、われわれはどうするでしょうか。
これは、一冊の書物とともに誕生した青年と、この世界は小説のなかの虚構だと気付いた人類が、この世界の執筆者と対決してゆく物語です。
小説とはなにか、フィクションとはなにかを根本的に考える機会になれば、と存じます、
――――
愚生の文章は、愚生の理想を実現するために、やや難読になっているところがございますが、それは品質の高さを表現していると自負しております。
『愛の遺族』
あなたは、どうすれば世界が平和になるか考えたことがありますか。
これは、本来ならば世界を平和にするはずの古代遺産『オルゴール』を手にいれたがために、人類が滅亡して、復活を果たそうとする物語です。
本作全体が叙述トリックになっており、最後に、タイトルの意味がわかるようになっております。
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愚生の文章は、愚生の理想を実現するために、やや難読になっているところがございますが、それは品質の高さを表現していると自負しております。
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また、本作は文學界新人賞の二次選考を通過した作品です。
今後、文學界新人賞に応募されるかたには、予選通過のよい参考になるかと存じます。
『無情百撰』
あなたは、自殺したいとおもったことがありますか。
これは、新潟県が共産主義国として独立したもうひとつの世界で、魂がみえる青年が自殺をすべきかどうか、死霊たちに聞いてゆく物語です。
その結末は、あなたがご確認ください。
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愚生の文章は、愚生の理想を実現するために、やや難読になっているところがございますが、それは品質の高さを表現していると自負しております。
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また、本作は文學界新人賞の一次選考を通過した作品です。
今後、文學界新人賞に応募されるかたには、予選通過のよい参考になるかと存じます。
『Α∧Ω(あるふぁかつおめが)』
あなたは、実験文学が好きですか。
もしかしたら、実験文学というものを読んだことがないかもしれません。
本作は、究極の存在である『Α∧Ω』をめぐる、八つの物語を、八つの文体で描きわけた、壮大なる実験文学です。
この実験が成功するかどうかは、あなた次第です。
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愚生の文章は、愚生の理想を実現するために、やや難読になっているところがございますが、それは品質の高さを表現していると自負しております。
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また、本作は群像新人文学賞の一次選考を通過した作品です。
今後、群像新人文学賞に応募されるかたには、予選通過のよい参考になるかと存じます。
短編集――
『TRAGEDY-人間-OF-悲劇-HUMAN』
あなたは自分の人生に満足していますか。
もし、あのときにちょっとでも奇蹟がおこっていたら、とおもったことはありませんか。
この作品は、ある超越的存在である『わたし』が、さまざまな人生に奇蹟をおこして、最良のものに変えようとする連作短編集です。
最終話では、そんな『わたし』の正体と、『わたし』の苦悩がえがかれます。
本作は、群像新人文学賞二次選考通過作品です。
そのため、あとがきとして、群像新人文学賞の傾向と対策というエッセイも加筆させていただきました。
今後、群像新人文学賞に応募する予定のあるかたも、是非、参考にしていただければ、とおもいます。
愚作のほか、Kindle書籍をお読みになるには、以下の端末をおすすめいたします。
われわれは神によって書かされている
大坪命樹氏の第二論文である。
個人的に、速読で拝読したので、全体的に誤読している可能性があり、本レビューも不適切な可能性があるが、そのあたりはご諒承いただきたい。
――
本論は、まず『小説はだれが書いているのか』という根源的なる論点から濫觴する。
そこにおいて、大坪氏は、仏教における『諸法無我』などのタームを駆使して、『われわれは外部からの影響によって成立しているキメラにすぎないので、われわれ自身が書いているのではなく、キメラとしてのすべての要素が輻輳して書いているのである』というように仰有る。
これが、題名である『キメラとしての信仰』の『キメラ』の部分である。
そのうえで、大坪氏は、神懸かりによって傑作を執筆できた体験を物語るなどして、『神懸かり』とは言葉の綾ではなく、実際にわれわれは神のようなものに書かされているのだ、というように論理を展開してゆく。
ここは、モーリス・ブランショのいう『彼』の理論にちかい。
モーリス・ブランショの『文学空間』や『来るべき書物』によると、作家は無意味な文字をつらねることによって、『もうひとつの夜』を彷徨し、『彼』に書かされるだけの存在になるという。
これが有名な『文學の死』であるが、モーリス・ブランショと相違して、大坪氏は、『そのために文學は生きている』という方向性を見出しているようにおもわれる。
つまり、執筆とは神に書かされている行為であり、たとえ、世間にみとめられなくても、文學の神にみとめられれば、われわれは満足できるのだということであろう。
こちらは、ジャック・ラカンのいう『大文字の他者A』とほぼおなじ視座である。
ジャック・ラカンによると、われわれはおなじ人間という『小文字の他者a』にみとめられるだけでは満足できず、もっとおおきな『大文字の他者A』にみとめられなければ満足できないという。
ここでいう『大文字の他者A』は諸説あるが、そのひとつが神であることは間違いない。
ここにおいて、大坪氏の慧眼は、ジャック・ラカンと一致する。
ここが、『キメラとしての信仰』における『信仰』の部分といえるだろう。
さらに論文は敷衍されてゆき、なかんずく、AIと藝術の問題を穿鑿してゆくところが面白くなっている。
畢竟、藝術というものは不完全だから藝術であるのであり、AIの藝術は完全だから藝術ではないというように愚生は理解させていただいた。
つまり、われわれは不完全だから文學を書けるのであり、AIが文學を書くには、まず『不完全に』ならなければならないというわけだ。
この逆説は非常に蠱惑的であるし、間違いなくひとつの真理を浮彫にしているとおもわれる。
たとえば、大坪氏はプラトンのイデア論に言及し、『四角のイデアを現実では再現できない』こととおなじく、『完璧な文學のイデアは現実には執筆できない』というようなことを仰有っている。
村上春樹氏の『風の歌を聴け』の冒頭文を引用までするのは野暮だろうが、これはまったくの真理である。
大坪氏は最後に、『全人類は藝術家になるべき』だと仰有る。
そもそも、人生そのものが藝術であり、全人類が藝術家になれば、世界は平和になるという、前作から垣間見える大坪氏の一貫した平和主義に感動させられる。
『人生でなにも成し遂げたくない』といってノーベル文學賞を辞退した哲学者エミール・シオランは『ヘーゲルの全著作を読むよりも、一葉の手紙を書くほうが創造的である』というようにいっていたはずである。
まさに、全人類は一葉の手紙を書くべきなのである。
――
以上、ざっと速読したかぎりにおいて興味深かった箇所についてレビューさせていただいた。
意外だったのは、新人賞を劈頭とする文壇のプロ・アマ構造への言及がすくなかったことで、わがままをいえば、是非とも、この矛盾点をもっと穿鑿してほしかった。
が、それは欲張りすぎだということだろう。
全体的に俯瞰すると、『われわれは神によって小説を書かされているのであり、その神にみとめられれば満足なのである』という骨骼がみえてくる。
これが大坪命樹氏という『キメラとしての信仰』であるが、『信仰』だというのはあきらかな謙遜であり、上記の命題は、きっとわれわれ執筆者たちにとって、普遍的に真であると愚生は信じている。
出版界という悪魔に魅入られたギャンブラー
本書は、毀誉褒貶かまびすしい見城徹氏という人物を、きわめて実践的な自己啓発書の著者として、また、高邁なる経営者として再発見させる一冊だった。
――
個人的に、見城徹氏といえば、津原泰水氏との軋轢や、かれの発言にたいする花村萬月氏からの非難などによる、マイナスなイメージしかなかった。
だが、本書を読むかぎり、見城徹氏は陳腐なほどまともな経営者であることがわかる。
同時に、本書はよくできた自己啓発書になっている。
『圧倒的努力は、いつか必ず実を結ぶ。』
『自分がすらすら解ける問題は、他の人も容易に解ける。そこで差はつかない。』
『運と言いたいなら言えばいい。ただ、俺は、あんたの百倍、血の滲むような努力をしているよ。』
『ふつう人は、憂鬱なこと、つまり辛いことや苦しいことを避ける。だからこそ、あえてそちらへ向かえば、結果がついてくるのだ。』
『俺の覚悟を舐めるなよ、ということである。この気迫が相手をひるませ、譲歩を引き出す。』
『伝説ができれば、仕事は向こうから勝手にやってくる。』
『「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」という考え方は、ぶれやすい心に安定をもたらす。それは過不足のない、とても現実的な考え方だ。』
以上はあくまで一例であり、ここだけ引用するとありきたりな感覚がするが、前後の文脈をふくめて、本書を読むと、露悪的ながらやさしい見城徹氏にはげまされている気分になってくる。
――
ただし、本書は各断章において、見城徹氏の文章が掲載されたのちに、藤田晋氏の文章がつながっているのだが、この藤田晋氏の文章が殺人的につまらない。
(個人的に、藤田晋氏のほかの著作は面白かった記憶があるが、本書は、さきに見城徹氏がお題をだして、それに藤田晋氏がこたえる、というかたちになっているので、自然と、藤田晋氏独自の思想が凸露しにくくなっている。つまり、藤田晋氏の文章が、見城徹氏の文章の註釈になってしまっているので、藤田晋氏のほんらいの実力が発揮できていない。これは藤田晋氏の責任ではなく、本書の構造的な問題である)
畢竟、見城徹氏の文章だけで、半分の分量、半分の値段で充分だったのではないか。
――
余談だが、本書のなかで、見城徹氏は『自分は筋金入りの不眠症』で、『蒲団にはいって三十分以内に眠れたことがない』というようにいっているのに驚愕した。
愚生も不眠症を体験しているが、『二十四時間まったく眠れない日が一週間に二日』あれば不眠症といえるだろう。(ちなみに、不眠症とまではゆかなくとも、入眠障害の場合でも、眠るまでに一時間以上が必要で、それが一ヶ月以上つづくことが診断基準となっているようだ)
見城徹氏は不眠症をなめている。
鬱病の王たるエミール・シオランは、少年期から不眠症になやまされ、一日三時間眠れたら大喜びしたそうである。
――
また、あえて重箱の隅をつつかせてもらえば、見城徹氏の『ヒットしたものは無条件にすぐれている』という主張にも疑弐をはさまざるをえない。
たしかに、見城徹氏の文章を読めば、いいたいことはわかるのだが、それならば、現在幻冬舎文庫に這入っている『リアル鬼ごっこ』も無条件にすぐれているというのだろうか。
それでも、『「リアル鬼ごっこ」はすぐれた文藝作品だ』とおっしゃるのならば、見城徹氏は見事な出版人である。
たとえば、見城徹氏の『小説の原稿は最後の部分しか読まない』というような発言に、前述のとおり花村萬月氏が激昂したわけだが、ここにおいて、見城徹氏のかんがえる文藝と、花村萬月氏のかんがえる文藝は、シニフィアンはおなじでも、シニフィエが乖離しているのである。
つまり、見城徹氏にとって、文藝は商業的価値ではかられるものであって、花村萬月氏はあくまでも藝術的価値を尊重しているのだ。
ここにおいて、見城徹氏の『売れたものは無条件ですぐれている』とは、『売れているものは商業的価値がある』というトートロジーとして、けっして間違っていないのではないか。
そうかんがえれば、『リアル鬼ごっこ』を傑作だという感性も納得できる。
――
そもそも、出版界という一種のギャンブルの世界において、『出版というギャンブルの勝ち方』を追窮しているのが見城徹氏なのである。
それは善悪というよりも、文藝の多様性における生存戦略でしかないのかもしれない。
見城徹氏や藤田晋氏とおなじく経営者である読者、企業でのリーダーの座をねらっているビジネスマン、のみならず、いくら努力してもだれも見てくれていないような気がしている藝術家など、さまざまな諸賢におすすめの書籍である。
『ゼロだよ。とにかくゼロに賭けるんだ』
――ドストエフスキー
文学の死――文学は死につづけてゆく
ブランショは、『文学の死』を宣言したことで有名だ。
ブランショの代表作はおもに『文学空間』と本書『来るべき書物』にわけられ、どちらも日本語訳されているのだが、なぜか、『文学空間』は高価な単行本のままで、『来るべき書物』のほうは文庫化されている。
そこで、真面目な読者諸賢は、『文学空間』から読破しようとおもわれるだろうが、個人的に、両方購入してみたところ、とくに『文学の死』について理解したい場合、『来るべき書物』をさきに購入したほうがよいのではないか、とおもわれた。
そもそも、ブランショは独特の曖昧模糊とした文体で論理を展開するので、どちらの著作も要約が非常に困難なのだが、以下、双方を斜め読みした愚生なりに、出来るだけわかりやすくまとめてみたい。
――
それぞれ、時代は前後するかもしれないが、まず言及しておきたいのは、ソシュールの言語学である。
ここで必要となるのは、『シニフィアン』と『シニフィエ』の関係である。
現代思想に興味のあるかたには、説明するまでもないことかもしれないが、シニフィアンとは、『表記された記号』であり、シニフィエとは『記号の表記内容』とでもいえばよいだろうか。
ソシュールは、そのシニフィアン=記号とシニフィエ=内容との関連に、差異の効果がはさまっている、と論じたわけだが、ここではあまり関係ない。
つづいて重要となるのは、ウィトゲンシュタインである。
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』のなかで、『希望や憂鬱や絶望といった形而上学的なシニフィアンは、いかなるシニフィエとも写像関係をもたない』とした。
写像関係とは、シニフィアンが明確にシニフィエを指示していること、とでもいえばわかりやすいかもしれないが、たとえば、上述した『絶望』というシニフィアン=記号のシニフィエ=内容はどんなものかといえば、『何キログラムで何センチメートルの全長なのか』など指示できないことがわかる。
つまり、『形而上学』(精神面、倫理学、宗教など)は、空虚なシニフィアンのかたまりなので、原理的に『語りえないもの』となり、ゆえに、われわれが語りえるのは形而下学、とくに物理学的なシニフィエだけとなる。
こうやって、『哲学は死んだ』ことになる。
そのうえで、ブランショはさらに、『形而上学のみならず、形而下学においても、すべてのシニフィアンはシニフィエと写像関係をもたない』というように考えたわけである。
――
たとえば、『吾輩は猫である』という文章のなかの『猫』というシニフィアンは、一見、『猫』というひとつの形而下学的なるシニフィエを指示しているように読めるが、その猫が『体重何キログラムで、全長何センチメートルで、何本の毛の生えた猫なのか』ということは、まったく指示していない。
この考えをつきつめてゆけば、『猫』というシニフィアンは、『猫』の全素粒子的配列をすべて記述できなければ、『猫』のシニフィエと写像関係をもつことはできず、そのような写像関係は物理的に不可能なので、『すべてのシニフィアンは虚無である』といえる。
ゆえに、論理的帰結として、作家は『シニフィエをもたない虚無のシニフィアンをつみあげてゆく』ことしかできないことになる。
まぎらわしいかもしれないが、このあたりは、『文学空間』において、『ゆえに作家は文章を執筆するとき、なにも表現することのできない「もうひとつの夜」を彷徨い、「彼」(神様のようなもの)に文章を書かされるだけの死者となる』というように論じられる。
ここで、『来るべき書物』にもどるが、『すべてのシニフィアンがシニフィエをもたない虚無』であるのであれば、『文学の死』はいまにはじまったものではなく、『文学の開闢からはじまっていた』ことになる。
つまり、『文学はある時点、とくに現代において死んだ』のではなく『文学とはつねに死にゆくもの』であり、『文学の歴史がはじまってから、ずっと死につづけてきた』のである。
ゆえに、ニーチェが『神は死んだ』といい、フーコーが『人間は死んだ』といったようなかたちで、ブランショは『文学は死んだ』とは『いわない』。
文学は、古今東西、あらゆる時代と場所で『死につづける』だけなので、文学は『死んだわけではない(そもそも生きていたことがない)』といえるのだ。
そこで、ブランショは、『文学の死』に対峙した書き手として、詩人マラルメに注目したうえで、現代において、ベケットに希望を見いだすが、結句、『死にゆく文学にはいかなる解決ももたらされない』とする。
――
では、プロ・アマ問わず、古今東西の書き手に、文学を執筆する意味はないのだろうか。
これについては、読者諸賢それぞれに感想がもてるであろうが、あえて、ブランショの思想にもとづけば、『言葉は虚無なのだから、作家たちは永遠にとどかない言葉を、それでも他者たちにたいしてとどけつづける』ということに意味があることになる。
ここにおいて、文学を執筆するという行為は、永遠にとどかないながら、『他者』をみとめるための行為になる。
たとえば、レヴィナスが『本統に他者の顔を見ているとき、われわれは他者を殺せない』というようにいっていたように、文学の死を閲した小説家は、『無数の他者の顔を見て、見られるために小説を書く』ことになるのではないかとおもわれる。
――
このように、本作はブランショによって『文学の死』が宣言された記念碑的作品なのだが、その結論は、あまりにも絶望的だ。
この『文学の死』と格闘している作家としては、ソローキンや中原昌也氏などがあげられるだろうが、ならば、かれらのようなアンチ・ロマン(反文学)のほかに活路はないのか。
ニーチェが『神は死んだ』といっても人間は神を信じるし、フーコーが『人間は死んだ』といっても人間のつぎなるエピステーメーは発見されていない。
かような、神や人間とおなじく、『文学』も、書くものは書いてゆくし、読むものは読んでゆく。
AI文学の黎明期にあたる現代、人間が文学を執筆しつづけるために、ブランショの著作は巨大なる絶望と、一縷の希望をあたえてくれるだろう。
大坪命樹氏の人生を追体験する歌集
大坪命樹氏の実体験をもとにしたとおもわれる第四歌集である。
現在、韻文の世界は、現代詩からはじまった『私秘性』という概念に支配されつつある。
おそらく、マラルメを源流とする、零度のエクリチュールのながれのなかで、現代詩人たちは、言葉の意味を殺戮して、読者がその内奥を識りえない詩の世界を構築してきた。
それは、現代詩のみならず、短歌や俳句の世界も同様で、たとえば、短歌の界隈では、あきらかに『穂村弘以前、以後』でその影響が劃されるとかんがえられる。
それに比較して、大坪氏の短歌は、徹底して現実の体験を、五感による『景』として描破する。
そこに『私秘性』は皆無で、すべての言葉に溌剌とした意味があり、一首ごとに明瞭なる世界がえがかれている。
ゆえに、読者は大坪氏の短歌を読むと、『自分も大坪命樹氏の人生を追体験している』という感覚におちいる。
本作では、大坪氏のお父様との永訣とおぼしき章からはじまり、アマチュア作家としての苦悩、奥様との羈旅、文学フリマへの出店体験などがえがかれているが、これらに『情景』の『情』がないがために、我我読者の『情』がその『景』に投影されるという仕組みになっている。
たとえば、大坪夫妻が大阪万博のコロンビア館にはいったとき、ガルシア=マルケスのタイプライターを観るという短歌があるのだが、ここで、読者も眼前にガルシア=マルケスのタイプライターが置かれていて、読者諸賢がそれぞれに感想をいだけるような感動があるのだ
例外として、「平和希望歌」と題される章は、一章まるごと万葉集風の長歌になっており、大坪氏の情熱がうかがえる。
それにしても、この分量で、第四歌集まで出版できる短歌への情熱はすごい。
また、あとがきも名文なので、最後までお得な歌集である。
精神障碍者の愛と文学を謳った傑作
これほど面白い私小説は滅多にない。
精神障碍者同士の恋愛を中枢に、おたがいが文学の道程を驀進し、挫折し、六親眷族から蛇蝎視され、まだ結果は出ないまま、主人公たちは幸せを識る。
文学賞の落選が原因の自殺未遂、文学フリマでの奮闘、お金が原因のぎりぎりの生活など、小説家志望者にはどれだけ写実的に描破されているかわかるであろうし、ゆえに、小説家志望者以外のかたにも、自信をもっておすすめできる。
恐縮ながら、前作は未読の状態で、本作を読了してしまったが、読者諸賢は、前作を瀏覧せずに、本作をひもといても問題ないだろう。
主人公が恋人のために指輪を購入する場面では、感動で落涙しそうになった。
写実主義が近代文学の帝王であれば、私小説こそが写実主義の帝王であることを、徹底的に体現した傑作である。
――
ただし、地の文がさらに工夫されることで、より面白くなる可能性があるだろう。
全体的に日本文学のコンテクストで描出されているので、むしろ、世界文学の影響を受けることで、さらに作品が洗練される可能性がある。
クーンのいうパラダイム・シフトのようなもので、文学は過去の傑作を基準として更新されてゆくものである。
ドーキンス風にいえば、過去の傑作が情報遺伝子として継承されてゆく様子を、文学史とよんでも過言ではないだろう。
たとえば、ノーベル文学賞作家の作品を読むことで、より深みが増すはずだ。
過去の傑作を参考にすれば、より評価される可能性が高まるだろう。
本作のような私小説を中心に執筆なさってゆくのならば、クロード・シモンの『路面電車』などを参考にするとよいのではないか。
このようなことを意識することで、大坪先生の文章レベルは、格段に上昇するのではないかと存ずる。
――
会話、ドラマツルギー、写実主義などにおいて、凡百に冠絶する面白さなので、上記のとおり、地の文の平板さが勿体なくてしかたない。
愚生としては、もっと二十世紀文学的な実験性をとりいれたり、あるいは逆に、本作でも言及されている泉鏡花のような擬古文に挑戦してみたりしてほしい。
今後、この平明体を窮めてゆくのか、二十世紀文学的な実験性をとりいれてゆくのかわからないが、大坪先生の作品がさらに深邃になってゆくことを希求する。
『愛』のある文藝誌か?
文藝が売れないといわれつづけている時代に、時代錯誤もおそれずに誕生した、新文藝誌である。
その点をまず評価させていただきたい。
――
本誌では、短編小説を中心に、現代詩や短歌(厳密には歌会記録)などが臚列されている。
そのうえで、創刊号の主題は『愛』なのだが、これが聊か上滑りしている。
小説にかんしては、ひとまず、目次に大文字で記載されている西加奈子氏「ディヴァイン」、市川沙央氏「音の心中」、小川哲氏「嘔吐」、尾崎世界観氏「【ア】【イ】」を拝読させていただいた。
が、本号の主題である『愛』というものがかんじられる作品はなかった。
西加奈子氏「ディヴァイン」では、マインドフルネスやハイヤーセルフ(なのか?)といった、現代小説でも稀有なるスピリチュアル界隈を主題としているのだが、駄目人間である家族にたいする主人公の咆吼に、弱者にたいする愛をかんじられないどころか、弱者にたいする憎悪しかかんじられなかった。
市川沙央氏「音の心中」では、主人公の恋人が熱中している反戦運動にたいして、『反戦運動が戦争を惹起する』というような、あまりにも陳腐な『反『反戦論』』が物語られて、辟易する(ミシェル・フーコーの爬羅剔抉したように、第二次世界大戦の濫觴は、ナチスの禁煙政策をはじめとする、『健康運動』である。そこから障碍者虐殺、ホロコーストへとつながった。この事実を障碍者でいらっしゃる市川氏が無視することは出来ないであろう)。
小川哲氏「嘔吐」は斜め読みしただけだが、プロ小説家にかんするストーカー的な熱狂的ファンを、たんなる悪役としてえがいており、これもあまりにも陳腐なストーカー像が描出されており、辟易した。
尾崎世界観氏「【ア】【イ】」にかんしては、文章が杜撰すぎてなにが書かれているのかわからず、読了できなかった。
ほか、大量の短編群も順次拝読しているが、なかなか、『愛』のかんじられる小説に逢着しない。
――
現代詩にかんしては、たしかに愛をかんじられるが、最果タヒ氏の作品などは、曩時にテオドール・アドルノが『アウシュヴィッツ以後、詩は不可能である』というようにいったときの『詩』になっていないか、と怵惕惻隠させられた。
そのほかは、《現代詩手帖》レベルといってよいのかわからないが、面白い作品がおおく愉しめた。
――
短歌にかんしては、プロの歌人の作品群ではなく、プロの歌人とプロの小説家とによる歌会の記録となっていて、残念であった。
余談だが、最近、《文學界》や《新潮》など、大手文藝誌のなかでも、プロの歌人による短歌が掲載されるなど、まことに短歌ブームである。
たしかに、短歌がブームであることは理解できるが、本誌のように総合文藝誌を目指すのならば、『なぜ俳句のコーナーもつくらない』のか。
装幀などからして、本誌のターゲット層は、わりと若年層かとおもわれ、俳句の愛好者層と乖離するのかもしれないが、高山れおな氏や外山一機氏など、現代俳句でも、若いかたがたにうける俳人はすくなくないとおもう。
現代の文壇における俳句差別にはどうも納得いかない。
――
閑話休題。
上述のとおり、本誌は『愛』を金科玉条としながらも、『愛』のかんじられない小説ばかりでこまったのだが、最後に、特集「読書バリアフリーをめぐる旅」を拝読して、『これこそまさに愛だ』と感動せしめられた。
基本的に、視覚障碍者や読字障碍者における読書の形態を穿鑿している記事なのだが、なかんずく、後半の、滝口悠生氏の随筆が素晴らしい。
滝口悠生氏は母方に六親眷族がおおく、みな、滝口氏の執筆活動を認識しているのだが、そのなかでも、一番熱心に滝口文學を『読んで』くれるのは、後天性の視覚障碍者の叔母であるという。
その叔母様がどのように『読書』するかというと、基本的に録音された朗読ソフトをもってしてであり、『朗読者によって当たり外れがある』のだという。
しかも、《文學界》や《群像》といった純文學雑誌に掲載された短編までをも、まっさきに『読んで』感想をくださるというのだからおどろいた。
無論、輓近は、PCやスマホのアプリで、テキストデータを自動音読してくれる機能もあるのだが、それはなぜかあまり普及していないそうだ。
いずれにせよ、さまざまな意味で、滝口氏の最高の読者が、視覚障碍者である叔母様だという随筆に、愚生は感動した。
この随筆を読めただけでも、おつりがくるくらいに素晴らしい雑誌だとおもった。
――
総括だが、まず、先発の一般文藝誌のように、だれが最後まで瀏覧するのかわからないような連載長編を皆無にして、一号購入すれば最後まで読める短編小説を中心にしてくれたのは、非常にうれしい。
『各作品は雑誌一冊で完結させる』という路線は、最早、老舗の文藝誌のほうが、本誌を見習うべきだと存ずる。
また、『総合文藝誌』という形式でいうと、前述のように、俳句のコーナーがないのはさびしいが、一冊の文藝誌で、小説とともに、現代詩や短歌も愉しめるのはたいへんにうれしい。
が、その方向性で『Greatest Of All Time(=史上最高の)』あたらしい文藝誌をつくるのならば、一般文藝誌に思潮社《現代詩手帖》、角川《短歌》、角川《俳句》、書肆侃侃房《ねむらない樹》までをも合体させたような、『完全なる総合文藝誌』くらいは目指してほしい。
それくらい出来たら、愚生のみならず、おおくの読者諸賢にとっては、夢のような雑誌となるかとおもわれる。
とにかく、『短編小説中心』『詩歌のコーナーももうける』『とにかく破格のやすさ』という『形式』において、本誌は百点、否、二百点満点である。
のだが、上述のように、掲載小説の品質に若干の疑弐をはさまざるをえないのが残念である。
愚生は基本的に、他者の作品に悪口はいわないという主義をつらぬいているので、本誌のなかでも、冠絶した作品があれば、それを中心に論じて、絶讃したかった。
だが、誠に恐縮ながら、今回の掲載作群には、いずれも、おおきな瑕疵があり、無邪気に鑽仰できない次第であった。
――
重箱の隅をつつくようで恐縮だが、Kindle版は、小説全般がリフロー形式で難儀することなく読めるのにたいし、現代詩のコーナーや、歌会のコーナーのなかの短歌そのものなどが、画像形式になっていて、(とくに歌会では短歌の掲載されている位置がおかしく)非常に読みにくくなっている。
とくに、現代詩は、タイポグラフィー的側面のある作品もおおく、電子書籍化する爾時に問題となるのは詮無いことかもしれないが、これは、電子書籍リーダーの開発側様ともども、今後、熟慮していただきたい。
――
ともかく、全体的に、短編小説群の品質は、老舗の文藝誌にはかなわないとおもわれたが、ここまで縷縷と物語ってきたように、雑誌の方向性としては、けっして間違っていないとおもう。
あとは、小説、現代詩、短歌、できれば俳句における、作者の品隲、および任免黜陟と、内容の精査が問題になってゆくかとおもわれる。
斯様に、未来のあるこころみなので、僭越ながら、今後の活動を応援させていただく意味で、星五つをさしあげたいとおもう。
――追記2025/01/06
上記レビュー投稿爾後、順次、ほかの短編群も拝読させていただいているが、現在のところ、葉真中顕氏の「五十歳、ロスジェネ、ギバーおぢ」が抜群に面白かった。
本作も、不穏なる出だしで、『また弱者差別ものか』と怵惕惻隠したが、読了してみると、見事な叙述トリックで、そのうえ、本誌本号の主題である『愛』もかんじられ、最後は感動的ですらあった。
いかんせん、期待せずに、速読で読了してしまったのが悔やまれる。
本誌をご購入なさった読者諸賢には、是非、「五十歳、ロスジェネ、ギバーおぢ」をわすれずに瀏覧なさっていただきたい。
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また、上記のとおり、本号の各短編について、各先生がたにはたぶんに失礼なレビューをさせていただいたが、基本的に、過去の作品群からして、各先生は、非常にすぐれた小説家だと存じている。
が、よくあるように、出版社様というか、編集者諸賢の執念不足で、せっかくの作品の完成度が逓減している場合がみられる。
原因はよくわからないのだが、おなじ作家先生でも、出版社がかわると、作品のレベルが上下することがあるのだ。
ゆえに、本誌の出版社様には、今後とも、さらに高品質な作品を輩出してゆけるように、応援させていただきたく存ずる。
縷縷と物語ってきたが、総合的に俯瞰して、本誌を購入したことはけっして後悔していない。
今後も、新刊が出来れば、また購入させていただきたく存ずる。
嚮後の期待もこめて、矢張り、星は五つとさせていただく。
五十余年を経てかなえられた「神様、お助けを!」
筒井氏曰く「最後の長編」らしい。
筒井氏曰く「最高傑作」でもあるという。
本作は全四章形式となっており、河川敷と公園で女性の片腕と片脚が発見されるという事件を濫觴とする「ベーカリー」、全知全能となった結野教授の奇蹟を描破する「公園」、全知全能の結野教授、畢竟、《GOD》の裁判を叙述する「大法廷」、《GOD》のTV出演と後日談からなる「神の数学」である。重要なのは第四章「神の数学」であり、就中、TV出演場面の後半にて、《多元宇宙論》の話題におよんだ爾時、《GOD》は小説としては致命的なる発言をして本作が《メタフィクション》――作中では《読者参加型のメタフィクション》である《パラフィクション》とされているが――であることを標榜する。登場人物のひとりは「それ言うたら、おしまいとちゃうんけ」とまでいう。一見悪ふざけのような場面だが、全体的に上記の発言が本作の――ついでにミステリー部分の――主題となる構成になっている。
《宇宙はひとつではなく、なんらかのかたちで複数存在する》という多元宇宙論といえば、宇宙物理学の古典的理論であり、基本的にレベルⅠからレベルⅣまでのパターンがある。曩時は《すべての宇宙はおなじ物理法則にのっとっている》とされていたが、輓近は《巨億の宇宙のなかには、我我の宇宙とは相違する法則に支配される宇宙もありえる》とされる。其処で《GOD》は、《小説の世界はすべて可能な宇宙であり、いずれかの宇宙で実際に存在している》というように論述してゆく。
此処において、《GOD》と《世界》の関係が《筒井康隆》と《作品群》のメタファーであることが闡明されてゆく。最終的に《GOD》が秘書役の登場人物美禰子に物語る《あの台詞》が感動的だと話題になったが、この台詞はネタバレしないのが暗黙の諒解のようなので引用はしない。ただ、《GOD》が《被造物》をあのようにおもっている、ということは、《筒井康隆》が《自作の登場人物たち》をそのようにおもっている、という構造は明白だろう。ゆえに、《あの台詞》は、小説という可能宇宙においての《神》である《筒井康隆》から、『虚人たち』の主人公へ、『パプリカ』の千葉敦子へ、『富豪刑事』の神戸大助へ、『家族八景』の火田七瀬へ、「時をかける少女」の芳山和子へ、『霊長類南へ』のブライアン・ジョー・バラードへ――、というように、《すべての登場人物》たちへのメッセージであるともうけとれる。最終的には、一九六〇年発表のデビュー作「お助け」において、絶望的なる状況で「神様、お助けを!」と咆吼した宇宙航空士訓練生への《お助け》になったともいえる。五十余年の時間を閲して、筒井文學すべてがひとつの円環をなすことになったのである。
雑誌『新潮』掲載爾時から、《感動的》とまで絶賛された本作だが、個人的には《あの台詞》に落涙はしたものの《感動的》とまではおもわなかったし、筒井氏の《最高傑作》とまでもおもえなかった。「夢の検閲官」や「アイス・クリーム」のような短篇のほうが感動的だし、エンターテインメントならば『パプリカ』、純文学ならば『虚人たち』あたりのほうが筒井氏の最高傑作と鑽仰するに相応しいとおもわれた。と雖も、前述のとおり、本作をもって筒井康隆文學をウロボロス的に総括した神業的実験には万雷の拍手がおくられるべきだし、SF作家、純文学作家として五十余年にわたり第一線を驀進してきた筒井康隆氏の諸作の《総決算》としての文學的価値はあきらかであり、星五つとするだけの重要性は充分にあるとおもわれる。
















