Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

落選歴30回以上の愚生による『新人賞落選の苦痛』傾向と対策

輓近、苫米地英人氏の著作を劉覧していたら、『本統にすぐれている人間は、社会的に評価されていなくても、内面では滅茶苦茶に自己肯定感が高い』というような一節に出逢った。

そこで、愚生はこれを『新人賞に落選したときの苦痛への対策』として利用できないかとかんがえたのである。

愚生は十七歳から二十年以上にわたって、各新人賞に応募してきて、落選歴は三十回を凌駕する。

無論、ほとんどは一次落ちだ(つまり雑誌やネットに名前さえ掲載されなかった)。

経験者諸賢はわかってくれるだろうが、『新人賞の中間発表をみて自分の名前がなかったときの苦痛は半端ではない』。

陳腐な譬喩かもしれないが、われわれの作品はわれわれの子供のようなものである。

われわれの作品を落選させられる苦痛は、われわれの子供が猟奇的殺人鬼に惨殺された苦痛に匹儔する。

そこで、以下、愚生がこれまでためしてきた、落選の苦痛に対処する方法や、現在、考覈している方法などを臚列したいとおもう。

読者諸賢に役立てられればと存ずる。

 ◇

1 まず、小説を書く
ここからすでに、苫米地氏のいうように、『自分は人類史上最大級の天才だ』とおもうことである。
これに『嘘』はない。
そもそも、新人賞に応募できるだけの枚数を、文字列で埋めただけでも異常なことである。
あなたは実際に天才だということをわすれてはならない。

2 小説を応募する
この時点から、すでに、『落選したときのこと』をわすれないでおく。
つまり、『おれやわたしの書いた傑作は、選良しか理解できないのだから、どうせ落選するだろう。が、それはおれやわたしの作品の価値とは無関係だ。おれたちの作品の価値はおれたちが決める。他人が決めるものではない』とおもいながら、応募するのである。

3 中間発表
ここでは、だいたい、雑誌やWEBで結果を確認することになる。
つまり、『中間発表の頁をひらくまでに、物理的に時間が生じる』のだ。
ここでも重要なのは自己肯定感だ。
『どうせ、おれたち天才の書いた作品が理解されるはずがない。どうせ一次落ちだろう。もしかしたら、すこしでも眼力のある評者が予選を通過させてくれているかもしれない。が、それはおれたちの作品の価値とは無関係だ。おれたちの作品の価値はおれたちが決める。他人が決めるものではない』などとおもいながら、ゆっくりと頁をひらくのである。

4 落選決定
おそらく、読者諸賢の傑作は落選していただろう。
作品名も筆名も掲載されていなかっただろう。
もしかしたら、予選だけは通過しているかもしれないが、ほかの応募者に敗衄した屈辱は鬱勃たるものがあるだろう。
そこで、矢張り自己肯定感だ。
『やっぱりな。おれのかんがえたとおりだ。おれのような天才の書いた傑作がやすやすと理解されるはずがない。それはおれの作品の価値とは無関係だ。おれの作品の価値はおれが決める。他人が決めるものではない』などとおもって、頁をとじるのである。

5 最終候補にのこる
意想外に、ここが厄介なのだが、二十年以上応募しつづけると、まれに、最終候補にのこる場合もある。
愚生は一度だけだが、その歓喜はすさまじいものがあった。
これが厄介だというのは、結局落選したとき、一次落ちでもなく受賞でもない、宙ぶらりん=サスペンスな状況におかれるからだ。
愚生は無論、最終選考で落選したが、これは本統に稀有なパターンなので、心理的な対処法はまだおもいついていない。
鯨統一郎氏などのように、よくあることだが、『一度、最終候補にのこったのだから、この新人賞には脈がある』とはかぎらない。
愚生自身が経験しているのだが、一度、最終候補にのこっても、爾後、一次通過すらできない、という新人賞もおおい。
(鯨氏は、人生ではじめて最終候補にのこった新人賞にふたたび応募し、一次落選したが、出版社から電話があり、一年くらいのタイムラグがあって、デビューした)
僭越ながら、愚生からいえることは、『新人賞は実力というよりは相性である。自分の書きたいものを書いて、相性のよい新人賞に応募する』ことが重要である。

 ◇

以上、これでは、出版社を破家にしている、とおもわれるかもしれないが、二十年以上、アマチュアをやってきた愚生は、読者諸賢、アマチュアの傍輩たちの味方をしたい。

ひとつ、重要なことを附言しておけば、『自分の価値は自分で決めるもので、他人が決めるものではない』というよくいわれる箴言は、まぎれもない真実だということだ。

曩時に瀏覧した精神医学の解説書に『『自分の酒をひとに評価してもらって安心する』(漱石)というような、他人本位は神経症的である。』という一節があった。

饒談ではなく、自分の作品の価値を他者の評価にゆだねていると、神経症や精神病になりかねない。

実際に、某新人賞の落選をきっかけに、慢性の不眠症――これは地獄だ――になって、現在にいたる愚生がいうのだから間違いない。

 ◇

前述した対処法は、誇大妄想的な現実逃避かとおもわれるかもしれないが、実際に、傑作が文學賞で落選することは日常茶飯事である。

ノーベル賞が典型的なように、トルストイカフカボルヘスカルヴィーノジョイスプルーストナボコフブランショも――枚挙にいとまがないが――これら『超ノーベル賞レベル』の作家たちはことごとく落選してきた。

つまり、『レベルがたかすぎるとだれにも理解されない』というのは、ドラえもんジャイアン的な誇大妄想ではなく、『事実』なのだ。

丸山健二氏のいうように、『真の文學が投稿されたら、出版社が理解できないので、百%落選する』のである。

この残酷ながら甘味なる『現実』をとくと凝視して、いつか、奇蹟的にあなたの作品が絶讃される日を翹望している。

これは、嘘ではない。