Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

空虚の特異点――カフカあるいは『小説を読む』ということ

 カフカはわかりやすい。
 わかりやすすぎる。

 

 たとえば『変身』における変身を愚生は『資本主義社会において労働者が働けなくなったらどうなるのか』という象徴というか寓喩として読んでいておなじく『城』における城は人間の到達不可能なる唯一神の象徴として『断食藝人』における藝人は藝術家一般の象徴として受け取っていて斯様に瀏覧すればいかにも『わかりやすく』小説が読めるのだが輓近保坂和志氏の随筆『小説の自由』シリーズを拝読したところ『三島の『金閣寺』における金閣寺カフカの『城』における城というものを象徴的に読むのは本来の読み方ではない』というようなことが揮毫されており愚生は『カフカは本統はわかりやすくなかったのだ』と反省するとともに『ならばカフカのような瞥見すると『わかりやすい』小説はいかに読むべきなのか』という疑問が醞醸されたのである。

 

 まず愚生は保坂和志氏がよく『小説は音楽である』というような修辞法をもちいるので『カフカを音楽として読む』あるいは『聞く』ということを考覈しカフカの小説を音楽のコード進行や旋律やリズムといったものとして瀏覧せんとしたものの斯様にすると漢詩や和歌や十四行詩やルバイヤートといった詩歌が本質的に『音楽』であることが髣髴され其処からおなじく保坂和志氏による『散文は韻文とはまったく異なるものだ』というような鮮明たる旗幟が翩翻としていよいよ『これは厄介な問題だぞ』とおもわれた。

 

 たとえば前述のとおり『金閣寺』の金閣寺天皇陛下天照大神の象徴などとしてまた『城』の城を唯一神や絶対的なる真実の象徴などとして読むことを『禁じる』のは稀有なる例ではなく上記の二例が宗教的中心性を『髣髴させる』ことから聯想されるようにこれは『作品の構造』および『象徴の定義』という二面においてあきらかにデリダのいう階層秩序的二項対立をなしておりつまり『城』の聳立している街衢がまさに然様なる形式をもっているように『何某かを中心とした同心円をえがいている』ことになりつまりは『脱構築可能』であることになる。

 

 畢竟斯様なる読み方では『中心Aの絶対性を流動的に転覆』させることになるのだがすごいのは斯様な読み方に対しても保坂和志氏は『非――A』は『A以外のすべて』ではなく『AのなかにふくまれるAならざるものの集合』であると標榜しこうなると『中心Aを脱構築するのは中心Aの半永続的存在を肯定すること』あるいは『中心Aの『中心性』そのものを永遠に肯定すること』になってしまうのであり保坂和志氏がポストモダンの中枢概念そのものを脱構築しているとまでは大袈裟であるがゆえにいえないのだが曩時にドゥルーズラカンの講座に関係していたことを『恥じている』という保坂和志氏の主張には同感を禁じ得ない。

 

 其処で愚生が髣髴したのは『文學空間』や『来たるべき書物』におけるブランショ的な読み方であり――これはソシュール言語学の知識があるかたには当然のことかもしれないが――ブランショがいうには『猫という言葉が指し示す猫はこの世界に存在しない』がゆえに『言葉』には『内容』がなく――シニフィアンにはシニフィエがないともいえる――小説家は『内容』のない『言葉』をつらねる仕事なので『小説は書かれるほどに増殖してゆく無尽蔵の空虚』であることになり前述のデリダのくだりと関聯させればブランショの考覈する小説における中心性とは『空虚』というか『虚空』というかそのようなものなので逆理をとれば『小説は根源的に脱構築された藝術』であり『脱構築するべき中心にはもはや脱構築さえ不可能な『空虚』しかない』ことになる。

 

 つまり愚生が逢着した暫定的な『カフカの読み方』のみならず『小説の読み方』は『中心性としての空虚を読む』ことになりその『中心A』を成す絶対的なる存在は小説のなかに限っていえば『存在しない』ことでのみ存在することになり其処には暗黒の造物主アザトホースのような『言葉』しかなくブラックホールの中心としてシュヴァルツシルト半径という重力の特異点があるように『小説を読む』ということは『小説という空虚の特異点に墜落してゆくこと』だといえるのではないかつまり『『謎の男トマ』が『海』で溺れるように小説という空虚で溺れること』あるいは『『海』が『謎の男トマ』を溺れさせるように小説を空虚で溺れさせること』が元来の小説の『読み方』ではないかといえるのだ。

 

 なるほどそう読むと小説は『わかりやすい』。
 結句カフカは一廻りして『わかりやすい』小説になったのである。