Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

死後の科学〜『窮極の問い』と死後の世界

 疫病の瀰漫、海外での紛争、有名政治家の暗殺などと、黯黮たる気分になるような輓近である。

 そこで、愚生はもはや、現世にはあまり興味がもてなくなり、ひまがあれば、『死後の世界は科学的に証明できるか』ということばかりかんがえるようになった。

 ゲーテは『死せよ。成れよ。』といったが、よくわからないので、曩時に愚生が原文の詩集を購読して、祖父の遺品である独日辞典で翻訳したところ、直訳すると『死して死後のしあわせをねがえ』となることがわかった。

 つまり、ゲーテにとって、現世はあくまでも仮の世界であって、死後の世界でのしあわせこそが生滅の窮極的な目標だったわけである。

 といえども、ほとんどの読者諸賢は、『死後の世界など存在しない』か、『死後の世界が存在するかいなかは不可知である』とお考えになるだろう。

 愚生は浄土真宗の檀家だが、宗派とはあまり関係なく、『山川草木悉皆仏性』であり、つまり、人間も草木も素粒子も銀河系も、死後に、西方の極楽浄土へ『成仏』するとしんじている。

 無論、これは『しんじている』だけなので、『かんがえている』わけではなく、なんら根拠もない宗教的信念にすぎない。

 本統に『しんじられれ』ば、それでいいわけだが、愚生は尫弱なので、やはり『でも本統に極楽浄土なんてあるのかなあ』と『かんがえてしまう』のである。

 そこで、いまのところかんがえられる『死後の世界』が存在する可能性についてまとめてみたい。

 結論からいえば、科学的に、死後の世界は『かなりの確率で』存在する。

 わかりやすく、邃古から自然科学人文科学双方で議論されている『窮極の問い』というものについてかんがえてみたい。

『窮極の問い』とは、『なぜこの世界にはなにも存在しないのではなくて、なにかが存在するのか』というものである。

 つまり、『なぜこの世界は永遠の虚無ではなく、豊饒なる宇宙が存在するのか』というような問題だが、『窮極の問い』は論点が『ずれ』やすいことで有名なので、ここで詳細までつっこみ、ややこしいことにはしないようにする。

『窮極の問い』には、さまざまな解決案がしめされているが、そのひとつが、『世界になにかが存在するパターンは無限だが、なにも存在しないパターンはひとつだけ(永遠の虚無だけ)なので、確率論的になにかが存在する』というものである。

 すこしややこしいかもしれないが、ボルヘスの「バベルの図書館」を一例としたい。

 つまり、『アルファベット26文字と空白による無限個の文字列のしるされた書物が存在すると仮定されるとき、全頁が空白のパターンはひとつだけであり、空白のなかに一文字がしるされているもの、二文字がしるされているもの、三文字がしるされているもの――というように、ひとつでも文字が這入ったパターンは無限である』ということだ。

『全頁が空白』のパターンが『永遠の虚無』であり、『一文字以上が印刷されている』パターンが『なにかが存在する世界』ならば、『なにかが存在する世界』が成立する確率のほうが無限倍おおいのである。

 愚生は中卒で、高等数学についてはまったく無知なのだが、極限をもちいた数式にすれば、lim(x→∞)1/x=0で、『世界が永遠の虚無である確率は0に収束する』と表現されるのではないかとおもわれる(本統に愚生は数学が苦手なので、まちがいであったらもうしわけない)。

 ここまでくれは、あとは単純である。

『窮極の問い』のアナロジーとして、『死後の世界が存在するパターンは、無限に存在するが、死後の世界が虚無であるパターンはひとつだけ』なので、『死後の世界が虚無である確率は0に収束する』ことになる。

 これが、愚生による現在における結論である。

 無論、この解決法では、『あくまでも死後の世界が存在しない確率は0に収束するだけで、『0ではない』』のであるから不完全だ。

 また、この論法でゆくと、『死後の世界が存在する確率は∞に収束するが、それが極楽浄土のようであるとはかぎらない』のももちろんだ。

 つまり、『死後の世界が基督教的であったり、回教的であったり、上座部仏教的な地獄が存在したり、あるいは、人類がまったく想像できない世界であったりする可能性も充分にかんがえられる』のだ。

 ともかく、愚生は『死後の世界は存在するとしんじている』が、論理的には『死後の世界はかぎりなく百%にちかい確率で存在するとかんがえている』ことになる。

 これがいまのところの結論だが、もちろん、宗教的な観念がたぶんに這入ってくる問題なので、読者諸賢の宗教的理念(あるいはぎゃくに科学的信念)に悖理する記事になっていたら、もうしわけない。

 真実がなんであれ、愚生は、いずれこの問題に決着がつくことをねがっている。

なぜ自殺してはいけないのか~現代の奴隷制と自殺願望

 輓近、自殺情報系のYouTubeを劉覧していたら、元基督教徒であった配信者が『なぜ基督教で自殺が赦されないかというと、大事な収入源である奴隷が自殺しないため』という考察をしており、愚生は『なるほど』とおもった。前述した『すべての道徳は支配階級のために存在した』というエンゲルスのことばにも共鳴するのではないか。此処において、宗教は金持ちが貧乏な奴隷を生き地獄からのがさないための『道徳』だったのである。

 といえども、恁麼の配信者の発言には疑問がのこる。まず、基督教で自殺が赦されないのは、新約聖書ではなく、猶太教時代の旧約聖書における十誡が論拠とされているであろうことである。そもそも、奴隷制は邃古希臘を中心として、邃古羅馬帝國や濫觴期の亜米利加合衆国で適用されていたが、おそらく猶太人は、埃及時代に奴隷とされていた可能性はあっても、『猶太人自軆が支配者であった』歴史というのは毫釐しかないのではないか。

 つまり、奴隷がわにちかい猶太人が『奴隷を生き地獄に幽閉するため』に自殺を悪とするわけがないのである。とはいったものの、『支配階級が被支配階級を自殺させないため』に『宗教を利用』してきた可能性は充分にある。此処で、語弊を厭わずに『宗教』を『道徳』と換言すれば、現代日本でも『企業が社員を自殺させないため』に利用されているといっても過言ではないだろう。

 やや、はなしはずれるが、そもそも、『なにゆゑに人類文明では支配階級と被支配階級というヒエラルキーが存在するのか』は、『収奪』という現象によって説明できる。邃古希臘あたりは、歴史的資料が毫釐なので判断がむずかしいが、『資本論』によると、資本主義社会が成立する過程にはかならず収奪が存在するという。

 元外務官僚で露西亜現代史に造詣のふかい佐藤優は、『ソ連崩壊後の露西亜でまさに資本論に書かれていた収奪をみた』という。レーニンからスターリンへと権力が委譲され、世界革命から一国革命へと転向して大崩壊したソ連だが、崩壊爾時の国内では、国有資本を民間資本に遷移せしめるがために、貨幣のかわりの『民営化証券』が発行されたという。すると、これから到来する資本主義(結果的には修正資本主義=社会民主主義だろうか)露西亜国内で金持ちになるために、民営化証券をぶんどろうとして、日常的に殺人、暗殺、マフィアの跳梁跋扈などが発生したという。このような過程が、資本主義を成立させるための『収奪』である。

 いったん、収奪の時期がすぎると、資本主義は安定した『階級制度』となる。読者諸賢の実感しているとおり、金持ちの子は金持ちになるので、階級制度は無限の連鎖をつづけてゆく。日本史にまったく魯鈍な愚生だが、極端にマクロ的にみてみると、近現代の日本人の階級は、たとえば、関ヶ原の戦いで『武勲をあげたものと、活躍できなかったもの』を幕府が階級化し、この五百年くらい曩時の階級が、さきほどの無限の連鎖をおこしてできたものなどとかんがえられる。

 無論、明治維新前後で士農工商の階級制が廃止され、両次世界大戦直後に日本国内ではあきらかにハイパーインフレがおこっていたので、幾層かの歴史を閲して、あるていどは階級制が流動化していただろうが、すくなくとも、数百年、数千年規模で盤石たらしめられてきた階級制の連鎖から、現代のわれわれが脱出することは不可能にちかい。

 閑話休題。かなりとおまわりをしたが、斯様にして階級化された現代社会の奴隷制のなかで、奴隷たるわれわれが自殺志願者になるのは自然なことである。畢竟、邃古希臘の奴隷たちが自殺志願者であったであろうこととどうようである。否、千状万態の知の体系が構築された現代では、この奴隷制度が明鬯であるがこそ、われわれの絶望は鬱勃たらしめられるのである。

 今回は、自殺情報系YouTuberからの着想で、奴隷制から自殺願望について考覈してみたが、無論、自殺願望は複雑な構造をもっているので、奴隷制以外の要因もたくさん存在する。斯様にまわりくどく書くのは『カクヨム内では規定によって自殺を推奨する記事は書けない』からである。此処では、いちおう『愚生は自殺志願者だが、自殺を否定も肯定もしない』ということにしておく。

 斯様に不条理な自殺志願者奴隷制のなかで『自殺志願者の愚生』が、『なぜいまだに自殺していないのか』ということを総括として書いておきたい。個人的に決定打となったのは、カミュの『シーシュポスの神話』である。『哲学であつかうべき問題は自殺しかない』という有名な自殺論である本書において、カミュは以下のようにかたっている。『現代ではだれもが人生は無意味だと識っているが、其処で、自殺をするということは、この不条理=くそったれの世界を『肯定』することになる』のである。つまり、『この不条理の世界に敗北しないためには、『どんな生きざまでもよいのでただ生きる』』ことなのだと。どんな屑でもいい。どんな破家でもいい。無職でも童貞でも中毒患者でもいい。『そんなおれたちをくるしめる『世界』への復讐として『生きる』』のである。 

 とってつけたような論考だったが、最後に、自殺肯定論者にはシオランの『生誕の災厄』か、新書の『生まれてきたことが苦しいあなたに』を、自殺否定論者には前述の『シーシュポスの神話』をおすすめしたい。

なぜ生きるのか~道徳を棄てよ!

 われわれはなぜ生きるのか。
 こたえはかんたんである。
『金持ちがもっと美味しいものを喰らい、金持ちがもっと美人とセックスし、金持ちがもっと尊敬されるため』にわれわれは生きているのである。

 われわれがどれだけ勤勉に――勤勉どころか場合によっては物理的に死ぬほど――労働しようと、美味しいものはたべられないし、素敵な異性とは会話すらできないし、だれからも尊敬されないばかりか軽蔑される。這般の努力のすべては、われわれが最低限に糊口をしのぐため已上に『金持ちがしあわせになるため』に遂行されているのである。

 愚生はひきこもりだが、両親の経営している工場で、極端な力仕事が必要になった場合だけ、手伝いをしている。シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』を讀むとよくわかるし、実際に工場に勤務経験のある読者諸賢は熟知しているとおもわれるが、『現代の肉軆労働は、知的労働と力仕事の極端な両立』である。ヴェイユの時代にはなかったNC機器はともかく、たんじゅんなフライス作業でも、機器の調整には高度な知識が必要であり、どうじに、長時間の肉軆的拘束が必須とされる。

 斯様な作業は、無能なる愚生にはとうてい無理なので、極度におもい鉄塊をはこぶ作業などを愚生が担当しているのだ。然様な単純作業も、一五分でもしていれば、心臓が澎湃と搏動し、嘔吐感をもよおしてくる。肉軆の恢復には数日をようする。

 こうやって、とうてい、実際の肉軆労働者にはかなわぬくらいの肉軆労働をしたのちにおもったのが、『おれはなんのために生きているのだろうか』ということである。恁麼のこたえはかんたんにだされた。冒頭の『金持ちがもっと美味しいものを喰らい、金持ちがもっと美人とセックスし、金持ちがもっと尊敬されるため』である。

 前述したヴェイユの『工場日記』に『労働は人間から思考を奪うものだ』というような一節があり、高橋源一郎はこれをうけて『人間は考える葦であるという意味以前に人間は考える存在なのである』というように解説していたが、実際にわれわれは労働そのものによって、労働の『無意味さ』を隠蔽されているのだ。

 ニーチェはいった。
『すべての哲学的認識には道徳的起源がある』と。
 畢竟、プラトンイデア論も、ヘーゲル弁証法も、ショーペンハウアーの自殺論も、すべて『いろいろな視点で物語っているが、結局は、道徳は大事だぞといっているにすぎない』のである。

 エンゲルスはいった。
『すべての道徳は支配者層のために存在してきた』と。
 愚生はアナーキストであり、共産主義者ではないが、この『共産党宣言』の一節は人生のむなしさ、無意味さ、不条理さを明鬯に物語っているとかんがえる。

 たとえば、三島が『不道徳教育講座』において、『たくさんの悪徳をもつことが大事だ。道徳が九九%で悪徳が一%という人間がいちばんあぶない』というときには、けっして『悪徳のための悪徳』が物語られているのではなく、『たくさんの悪徳をもつことでおおきな悪徳からまぬかれられる』という『道徳のための悪徳』が推奨されているにすぎない。同時に、これらの『道徳のための悪徳』は結句、社会を『正常という名前の異常さ』で機能させるためという道徳的起源をもつのである。

 結句、われわれが『金持ちのために生きる』だけの人生から『われわれのための人生』を奪還するためには、『道徳をすてて悪徳に生きる』のが最善なのである。

『道徳的起源をもった道徳』の起源を解明したのがカントであって、畢竟、『他者を手段ではなく目的としてあつかえ』という嚮導こそが、『道徳の法則は天体の運動のように正確である』というときの『法則』になる。ゆゑに、われわれがわれわれの人生を奪還するための『法則』は、カントの真逆をゆく『他者を目的ではなく手段としてあつかえ』ということになる。

 カミュが『シーシュポスの神話』のなかで、『不条理な、つまり破家げたこの世界に敗衄しない』ためには、ソクラテスのように『ただ生きるのではなくよく生きること』ではなく、『よく生きるのではなくただ生きること』が第一だと書いたのと同様である。愚生は上記の『法則』によって、道徳的起源のさいたるものであるカントからの脱出を――あるいはツァラトゥストラのいうところの『没落』を――推奨するのである。

 われわれはいまこそ、道徳を棄てなければならない。悪徳を鑽仰しなければならない。われわれのもとめる英雄とは、ヘビースモーカーの酒飲みであり、ひきこもりの自殺未遂者でなければならない。

 われわれは超人であるとともに、無能でなければならない。

文學はほんとうに死んだのか。~『純文學はオワコン』論に反論する。

 愚生は、本随筆集の『文學は死んだのか。』において「文學は死んでいる」と書き、ネット書店の丸山健二著『真文学の夜明け』のレビューで「文學は生きている」と書くという、自家撞着した態度をとってしまったが、これらは、愚生の私淑する丸山健二が提唱している『真文學』の可能性を覬覦してのことであった。畢竟、ボルヘスやソローキンのいうように、近代文學からの瀲灔たるながれは、現代では断絶されているかにおもわれるが、丸山健二は『その先に存在』する真文學へと冀望をたくしているのである。

 丸山健二は『死んだのは文學ではなく文學もどきである』と断言し、『文學はこれからはじまるのだ』というように標榜する。たしかに、純文學は過去の遺産となりそうだが、丸山健二のいうように『これから真文學の時代がはじまる』のだと冀望して、此処でいったん、巷間に瀰漫する『文學はオワコン』論に反論しておきたいとおもう。

 愚生の随筆「文學は死んだのか。」も一種の『文學はオワコン』論であったが、なかんずく、ネット上で散見される『文學はオワコン』論は、いずれも、あまりにも表面的すぎて、批判となりえていないとおもわれる。『文學がオワコンかいなか』以前に、『だれも文學のことを真剣にかんがえていない』ことに個人的な危機感をおぼえたのである。ゆゑに、此処で、表面的な『文學はオワコン』論にたいして、ジンテーゼにいたるためのアンチテーゼとして、あえて、『文學はオワコン』論の各論への批判を考覈したいとおもったのだ。

 畢竟、愚生は『現在の純文學のありさまに満足はしていない』という視座からもって、『文學はオワコン』論には賛成だが、『純文學という範疇が根本的に終焉している』とはおもわないところで、『文學はオワコン』論に反対したいのである。斯様なる二律背反のなかで、巷間の『純文學論』のバランスをとるために、僭越ながら、いくつかの視座を『純文學論』に導入したいわけだ。

 今回は、ネット上でよくみられる『純文學批判』の類型として、『◇文學とはなにか定義できない。』『◇純文學はもう売れない。』『◇文學を讀むことに意味がない。』『◇サブカルチャーがあれば文學は必要ない。』というよっつの論点において、『文學はオワコンではない』というように反論してゆきたいと存じあげる。


 ◇文學とはなにか定義できない。

 ソシュール言語学において、シニフィエシニフィアンの狭間に恣意性が介在することは明鬯とされている。『文學とはなにかわからない』のならば、おなじくソシュール的位相において、『数学とはなにかわからない』し、『ダックスフントとはなにかわからない』ことになる。チョムスキー生成文法理論ならば、幼児期の生成文法シニフィエの乖離はないのではないか、といわれるかもしれないが、後述のとおり、ラカン精神分析学によれば、根源的に象徴界現実界は剥離しており、有名なはなしだが、『人間が直截に現実界にふれると発狂』する。


 ◇純文學はもう売れない。

 生前の丸谷才一の研究によると、単行本『羅生門』は当時のベストセラーとして、『二〇〇〇部』しか鬻がれていなかった。それでも、界隈の作家たちは、『二〇〇〇部も売れるなんてすげえな』と喫驚していたという。それが、現代では、芥川賞史上稀にみる売れなさであったという、丸山健二の『夏の流れ』単行本版ですら、四〇〇〇部売れたのである。余談だが、丸山健二の長篇『BLACK HIBISCUS』(2021年)は、一セット一〇万円で四〇セット売りあげた。

 念のために追記してみれば、純文學と漫画の単行本の売り上げには明鬯たる霄壌の差があるが、純文學は基本的に作者と編集者くらいで製作するのにたいして、漫画は数名のアシスタントの糊口を凌がせしめねばならないので、有名漫画家でも純文學作家以下の生活をしている、あるいは、赤字で新作がだせないということも稀有ではないという。


 ◇文學を讀むことに意味がない。

 ドーキンスの情報遺伝子論によれば、われわれ人間に『こころ』は存在しない。われわれが『こころ』と勘違いしているものは、外界からの刺戟としてのインプットを、ほかの外界からの刺戟にたいするアウトプットとして自動的に処理する情報の団塊でしかない。此処でわかりやすくラカン精神分析学を援用すれば、『無意識とは他者のディスクール』であり、『現実界想像界を体験するには象徴界が必要』であって、『外界の言語の団塊としての他者aが存在しなければ自分は存在しない』ことになる。此処にドーキンスラカンのアナロジーをみいだすことは容易であろう。

 柄谷行人は『必読書150』のなかで、『これはサルでも読めるブックガイドということではない。これくらい読んでいなければサルだということだ』というように書いていた。そのうえで、人文科學50冊、世界文學50冊、日本文學50冊が紹介されていたわけだ。

 畢竟、古今東西に明滅する言語の集合としての他者aを、情報遺伝子としていかほど無意識のディスクールとできるかで、『われわれは人間かサルか峻別』されるのである。


 ◇サブカルチャーがあれば文學は必要ない。

 マクルーハンのメディア論における『ホット』と『クール』の定義は繁文縟礼で、しばしば、勘違いしてもちいられることで有名である。愚生も勘違いしている蓋然性があるが、語弊を厭わずに説明すると、縦軸を『情報量』で横軸を『参加可能性』だとした場合、情報量がおおく参加可能性がひくいほど『ホット』になる。がんらい、マクルーハンは文學をホットなメディアとしてみていたらしいが、よくいわれるように、マクルーハンのメディア論は現代のメディアの状況と乖離しているところがある。其処で、現在、文學とサブカルチャーのいずれがホットかというと、圧倒的にサブカルチャーであろう。

 かつて、活版印刷技術による情報網=グーテンベルグの銀河系がメディアの主流になった爾時、すでに、文字列は『クール』で絵は『ホット』だった。たとえば、ホットなものに風刺画がある。十九世紀の紐育に『ボス』と鑽仰される有力者がいたが、ボスは界隈の政治家と癒着したうえで汚職をおこなっていた。恁麼のようすが新聞に風刺画として載った爾時、ボスはこういった。『有権者は破家だから文字は読めないが、絵ならばわかってしまうではないか』

 これとおなじことが、ベンヤミン政治学でもいえるだろう。ベンヤミンは『複製技術自体の藝術』において、『歴史の証人』であった藝術は、複製技術の進歩によって『アウラ』を喪失し、アウラを喪失した藝術は政治化されると指摘した。ベンヤミン共産主義者であったので、まず、アウラを喪失した藝術を共産主義革命に利用できないかと考覈したが、現実に藝術を政治化した嚆矢は、『美の祭典』や『民族の祭典』によって世界的な支持を隴断せんとしたナチスであった。アウラを喪失した藝術であり、ホットなメディアであるサブカルチャーには、斯様に不都合な側面があることを指摘しておきたい。


 ――おわりに 

 愚生は、本随筆集の各篇の紙幅を『2000文字前後』と勝手にきめているので、斯様に圧縮的な論調になってしまったが、いちおう、已上が、いまのところ愚生の標榜できる『文學はオワコン』論にたいする反論である。一気呵成に執筆したので、哲学的なタームや書名などに誤謬があるかもしれないが、御容赦いただきたい。

 最後に、『ではこれからの純文學はどうすればよいのか』という、『いつつめの批判』を想定してみたい。冒頭に執筆したとおり、愚生は『これから真文學の時代がはじまる』という丸山健二の主張に賛同するものである。では、『真文學』とはなんなのか。『それは実際に真文學とよべるレベルの文學がでてこないとわからない』といわれたら鮸膠もないが、丸山健二がデビュー当時から断言しているのは、『現代の文學の文章表現のレベルは二十%くらいである。七十%の文章が書けていたら大物とよばれる。われわれは映像文化にまけない文章表現をめざさなければならない』ということであり、此処における『映像文化』を『サブカルチャー』に置換すれば本論にもつながることであろう。

 また、丸山健二は『真文學とよべるレベルの作品が新人賞に応募されたら、かならず理解されずに落選するだろう』『これからはまっとうに仕事をしながら、自費出版などの経路で自信作を後世にのこすという書き手がのぞまれるだろう』というようにもいっている。現在のネット環境ならば、カクヨムやKDPにより無料で作品をのこせる。愚生は『アマチュアとプロはシステム的な乖離でしかなく、実際に書いている作品の偏差は同等だ』とおもっていて、ゆゑにこそ、斯様なカクヨムやKDPを劈頭とする、アマチュア文壇にも注目してきた。愚生ごときが此処で絶讃すると、各氏の迷惑になるとおもわれるので、個人名を臚列することは遠慮しておくが、実際に、アマチュア文壇でも『プロの世界にいてもトップクラス』とおもわれる書き手が何人もみつかった。斯様な俊乂たちの作品が後世までのこることを冀望しながら、此処で擱筆したい。

九頭龍一鬼(誰)の不撓不屈の新人賞応募歴、落選歴、通過歴。

 へげぞぞ様の近況ノートにあった「おれの創作記録のまとめ」が非常に興味ぶかかったので、愚生も同様に創作記録のまとめをつくってみました。元来、西暦をふくめて執筆したものですが、Wordの機能上、西暦表記が滅茶苦茶になってしまったので、当時の年齢だけ表記しておきます。基本的に、小説の落選歴だけ載せておきますが、発狂、すなわち統合失調症の悪化の箇所のみ、前後の略歴の理解にやくだつかとおもわれたので、掲載しておきます。また、一次落選作ははずかしいので題名の頭文字のみをしめし、一次以上通過作品およびカクヨム内で発表している作品の題名だけはそのまま表記いたしました。いったい、なんのやくにたつ記事なのかわかりませんが、みなさんの執筆活動の参考などになればさいわいです。また、ほとんど記憶をたよりに制作したものですので、幾許か失念している応募作および落選作もあるかもしれません。すみません。こんなやつでも小説家をめざしてがんばってきました。


十七歳~十八歳 処女小説「MT」執筆。150枚。いくつもの異世界を流浪して神とたたかうことになる少年が神の子供だったという、いまでいう異世界転移もの。

十八歳~十九歳 中篇「H」を坊ちゃん文学賞に応募。反応なし。すべての応募作にコメントシートを返信してくださるという、ありがたすぎるカドカワ・エンターテイメントNEXT賞に応募した「BD」が最低ランクのレベルE+とされ、一旦小説を断念。

二十歳~二十一歳 坊ちゃん文学賞より「また応募されませんか」という手紙があり、一念発起して中篇「無情百撰」執筆開始。元来、坊ちゃん文学賞用に執筆したものだが、内容を考慮し、文學界新人賞に応募。

二十一歳~二十二歳 「無情百撰」文學界新人賞一次選考通過。たしかこのころに「キモかわいい」の言葉の解説で『みんなで作ろう国語辞典』の大賞を受賞し、iPod nanoをいただく。大修館書店『みんなで国語辞典』に「キモかわいい」「出来レース」「外タレ」の三つの言葉の解説が匿名で載っているはずである。「TM」文學界新人賞一次落選。 

二十二歳~二十三歳 丸山健二『争いの樹の下で』を讀んで感動し、参考に購入した丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』に影響をうけ、以後、丸山健二からの圧倒的影響下で執筆をつづける。

二十三歳~二十四歳 丸山健二同様、男性最年少での芥川賞受賞を覬覦した乾坤一擲の中篇「ST」が文學界新人賞一次落選にて、体調崩す。

二十四歳~二十五歳 小説執筆に絶望し、『全知全能になれる』と勘違いしておこなった基督教神秘主義の儀式により神と接触し有神論者となる(そもそも、神秘主義の儀式は神と接触するためであって、『全知全能になれる』わけではなかった。また、みな信憑してくれないが、これは発狂以前のことである)。夏頃に発狂。自殺未遂。八月閉鎖病棟に入院。十一月退院。デイケア参加。

二十五歳~二十六歳 デイケア通院。年末より、小説執筆再開。「愛の遺族」執筆。

二十七歳~二十八歳 ストックしていた五作を五大文藝誌の新人賞すべてに応募してすべて落選。文藝賞発表直前にぎっくり腰。年末、「愛の遺族」を文學界に応募。

二十八歳~二十九歳 「愛の遺族」文學界新人賞二次選考通過。「Α∧Ω」執筆。

二十九歳~三十歳 「MN」文學界新人賞落選。「HK」文學界新人賞落選。「Α∧Ω」を群像新人文学賞に応募。

三十歳~三十一歳 「Α∧Ω」群像新人文学賞小説部門一次選考通過。「TK」文學界新人賞落選。「HH」文學界新人賞落選。

三十一歳~三十二歳 「KA」群像新人文学賞落選。「HK」文學界新人賞落選。「天と地と光と蔭と生と死と巨億の愛と我の孤独と。」執筆開始。

三十二歳~三十三歳 「WE」文學界新人賞落選。「天と地と光と蔭と生と死と巨億の愛と我の孤独と。」群像新人文学賞小説部門一次選考通過。「KA」すばる文学賞落選。

三十三歳~三十四歳 「らららかがくのこ」執筆、星新一賞に応募。「NZ」文學界新人賞落選「HM」群像新人文学賞落選。「らららかがくのこ」第五回星新一賞最終候補(翌年落選がきまる)。

三十四歳~三十五歳 「HM」日本ホラー小説大賞落選。「AI」群像新人文学賞落選。「KA」ハヤカワSFコンテスト落選。「失われた人類を求めて」「道」星新一賞落選。「TRAGEDY-人間-OF悲劇-HUMAN」を群像新人文学賞に応募。

三十五歳~三十六歳 「TRAGEDY-人間-OF悲劇-HUMAN」群像新人文学賞小説部門二次選考通過。

三十六歳~三十七歳 「BJ」文學界新人賞落選。

三十七歳~三十八歳 「KT」創元SF短編賞一次落選。「ED」文學界新人賞一次落選。「WE」群像新人文学賞一次落選。

いまにいたる。

総応募回数36回。
一次以上通過歴6回。
推敲をのぞき、総執筆枚数原稿用紙約7000枚。
みなさんも、どうか夢をあきらめないでください。

ニーチェの君主および奴隷道徳とアウフヘーベン

 ニーチェの話題だが、まずヘーゲル弁証法について髣髴したい。

 ヘーゲルはあのいかつい風丰からは想像しがたいが、本気で哲学により世界平和を現実せんとした人間主義者であった。恁麼の哲学の方法というのが弁証法であり、弁証法の中核をなすアウフヘーベンであった。アウフヘーベンとは、われわれの信憑する『正』の命題に対峙する、『反』の命題が現前した爾時、『否定を否定』して、『正であり反でもある』『合』にいたるという経緯である。よくいわれることだが、ヘーゲルは演繹的にアウフヘーベンという方法を標榜したわけではなく、ヘーゲル哲学の各論が帰納的にアウフヘーベンのかたちを浮彫にしてゆくにすぎない。

 ヘーゲル哲学においては、個人の内宇宙におけるアウフヘーベンが『精神現象学』において、家族から国家レベルでの外宇宙におけるアウフヘーベンが『法の哲学』において、それぞれ敷衍され、最終的に敵対する国家同士がアウフヘーベンされることで、世界平和は到来するというのだ。恁麼の世界平和への歴史は、ヘーゲル的には必然であり、人類がヘーゲル哲学を理解せずとも、自然と実現されるであろうと豫言される。

 此処から、ニーチェの道徳観についてである。

 一時期、ネット上で『ルサンチマン』という専門用語が流行したが、ルサンチマンとはおおまかにいって、ニーチェの定義する奴隷道徳と同等である。奴隷道徳においては、自己否定、謙遜、慈悲、などが金科玉条とされる。奴隷道徳の反対が君主道徳である。君主道徳においては、自己肯定、傲慢、自発、などが自我同一性の基盤とされる。一般的に、ニーチェ自身は、奴隷道徳にも一理あるとしながらも、君主道徳を鑽仰したとされる。

 此処で、有名な精神の三段階について想起してみたい。

 ニーチェは『ツァラトゥストラ』のなかで、人間の精神レベルのたかさを、第一段階の駱駝の精神、第二段階の獅子の精神、第三段階の赤子の精神に分類した。駱駝の精神においては、『なんじなすべし』という『だれかの命令にしたがう生き方』がなされる。いわば二人称の生き方である。獅子の精神においては、『われ欲す』という『自分のやりたいことをする生き方』がなされる。いわば一人称の生き方である。赤子の精神においては『なすがままに』という、いわば『零人称』の生き方がなされ、ニーチェは赤子の精神が完成段階だというのだが、はっきりとした定義はわからない。

 此処までの基礎的な知識を包括して、総論としたい。

 ニーチェの哲学において、駱駝の精神と、獅子の精神が、それぞれ、『奴隷道徳』と『君主道徳』に符合することは、おそらく明鬯である。ニーチェ自身、双方の哲学的関聯を、相互の内容の補完としていたのだろう。問題は、『赤子の精神に対応する道徳』を、ニーチェが想定していなかったことである。『赤子の精神』とはなにか。本統になんなのか。恁麼のこたえはニーチェ哲学そのものでは穿鑿できない。

 其処ででてくるのがアウフヘーベンである。

 あまりに単純すぎる論攷かもしれないが、駱駝の精神としての奴隷道徳と、獅子の精神としての君主道徳を『アウフヘーベンした』ものが、最終的なる道徳である『赤子の精神』なのではないだろうか。赤子の精神は『零人称の生き方』だとさきほど定義したが、そのながれで、奴隷道徳と君主道徳アウフヘーベンされた『合』の哲学とは、『零人称の道徳』あるいは『赤子道徳』ともいうべきものなのかもしれない。それはもはや道徳といえるものではない。ゆゑにニーチェ自身にも定義できなかった。然様にかんがえると、これこそが『超人道徳』だともいえるのかもしれない、が、愚生に自信はない。

 なにゆゑに、斯様な考覈に紙幅をついやしたかというと、愚生は元来、自己否定型の人間で、謙遜を美徳とし、弱者を愛するという慈悲のこころを大切にして生きているからである。畢竟、ニーチェの哲学にふれると、どうしても、愚生が奴隷道徳≑ルサンチマンの生き方に安住している不安感を鬱勃たらしめられるのだ。其処で、幾何学の問題を解くときの意想外の補助線(安部公房談)として、ヘーゲル哲学をもって、『ニーチェの理想としたのは、君主道徳でも、むろん、奴隷道徳でもなく、双方を合一させた赤子の道徳だったのではないか』という結論らしきものに逢着したのである。

 ほかにも、デリダ脱構築をもって、ニーチェ哲学を解読せんという計劃もあったが、やはり、此処では、以上のように、ヘーゲル哲学のほうが抜群に相性がよかった。愚生が最初から最後までいいたかったことは、『奴隷道徳はたんなる反命題=アンチテーゼ』であり、『ニーチェの哲学はおそらく奴隷道徳も肯定するところがあって』『赤子の精神こそがその証明』であり、『われわれは歴史の進化をうながすアウフヘーベンの連鎖のなか』で、『自己否定を否定するばかりではない』のだということである。

 結句、『赤子の精神』とはなにか。おそらく、ニーチェ関聯の文献を渉猟すれば、きちんと理解できるのだろうが、愚生の勉強不足のために、これをひとつの宿題としてのこして、中途半端ながら、本稿を擱筆したい。

愚生が勝手にえらぶ『人類史上最高の藝術』

 かつて、丸谷才一をはじめ、各界の知識人をあつめて『千年紀最高の作品をえらぼう』という企画がなされました。文学のみならず、絵画、映画、建築まで、日本の知性を総結集して人類千年史をふりかえったのです。愚生は曩時より、本作を読みたかったのですが、ながらく絶版のようで、結局、『人類史上最高の作品はなんなのか』よくわからないままになりました(検索したら、『源氏物語』が一位だったようですが、理由は不明です)。そこで、愚生は、個人で勝手に『各分野の人類史上最高峰の作品をえらぼう』と妄想したのです。
 くだんの妄想の結果、映画、絵画、文学、詩、などの暫定ベスト1をえらび、ここに列挙いたしました。本頁の最後に、『総合一位 人類史上最高の藝術』を品隲いたしましたので、おたのしみにしていてください。おそらく、『これが最高峰かよ』とつっこまれるでしょうが、愚生は真剣にえらびました。もし、おもしろい企画だな、自分もつくってみたいな、とおもっていただけたらさいわいです。


【洋画】

エド・ウッド

 史上最低の映画監督といわれるエド・ウッドの伝記映画である。才能ゼロにもかかわらず、けっして情熱を失わないエド・ウッドの姿勢に感動させられる。本作はアカデミー賞作品賞の候補になった。爾時に受賞していれば、『エド・ウッドという人生そのものがアカデミー賞を受賞した』という劇的な事件となったであろうが、運悪く、当時の候補のなかに、傑作『ビューティフル・マインド』があがっていたために、受賞をのがした。


【邦画】

世界大戦争

 僧侶でもある映画監督によって制作された反戦映画の傑作である。朝鮮半島での核兵器の使用によって勃発した世界核戦争に翻弄される市井のひとびとの悲劇がえがかれる。東京核攻撃をまえにして、主人公であるタクシー運転手が黄昏の穹窿にむかって「おれは金をかせいで娘を大学へやるんだよう。おれのいけなかった大学によう」というようにつぶやくシーンは、映画マニアのなかでも有名な『泣ける』場面である。


【西洋美術】

ダリ「マグロ漁」

 ダリの出発点であるキュビズムを肇始とし、ライフワークとしたシュールレアリスムを閲して、ポップアートにいたるまで、あらゆる技術を集大成した巨編である。絵画における『ユリシーズ』といっても過褒ではないだろう。


【日本美術】

狩野芳崖「悲母観音」

 たしか国宝である。正直にいって、日本美術に造詣がふかくないので、単純明快に『もっとも感動した日本美術』をえらんだ。現代日本美術にも傑作はおおいのであろうが、現代美術において、日本はいささか西洋におくれをとった感がいなめない。そこで、狩野派の代表作に注目してみた。


【海外文学】

ジョイスユリシーズ

 個人的に、二十世紀という時代は、『実験の世紀』だったとおもっている。政治的にも藝術的にもである。帝国主義の実験が両次世界大戦を惹起せしめ、戦後は共産主義という実験が失敗した。藝術の分野でも、さまざまな実験がなされ、あるいは成功し、あるいは失敗した。本作は、散文藝術における実験の成功例としてあげられる。人間ひとりの伎倆により、ありとあらゆるエクリチュールを網羅した大長編である。なかんずく、邃古ラテン語から現代の若者言葉までを網羅した「太陽神の牛」の章は、各国語に翻訳する爾時に最大のネックとなることで有名である。日本語訳では、丸谷才一を劈頭とする『三人訳』が有名だが、皮肉なことに、くだんの「太陽神の牛」の日本語訳はあまりに素晴らしい出来映えであり、個人的には『日本語表現の最高峰』だとおもっている。かつて、山城むつみは「文学のプログラム」のなかで、日本語は翻訳に適しているがゆえに、日本語のプログラムによって、日本国は根源的にグローバルな国家なのである、というように論じていたが、まさに、『翻訳がネイティブの日本語を凌駕』した結果となったのである。


【日本文学】

丸山健二『争いの樹の下で』

 鬱蒼たる山中で縊死した女性が産んだ『おまえ』の生涯をえがく巨編である。その圧倒的な文章力、実験的な構成、感動をもたらすクライマックスなどを総合して、日本文学で本作を凌駕するものはないとおもわれる。なお、全集版では大幅な改稿がなされており、賛否両論がなされている。


【漫画】

寄生獣

 読者に感動をあたえる、という目的へとむけて、一齣も無駄がないほどに完璧な漫画作品である。手塚治虫の『火の鳥』とまよったが、『火の鳥』は玉石混淆であり、また、実験的手法が失敗しているところもあって、『寄生獣』をえらんだ。 


【アニメ】

AKIRA

 とにもかくにも、『現場は相当にブラックだったのだろうな』とおもわせるほどにつくりこまれたアニメーションの水準に驚愕させられる。ただし、かなりグロテスクな表現が垣間見られるので、お子様に視聴させるのはおすすめしない。


【詩集】

ウマル・ハイヤーム『ルバイヤート

 鬱病患者のための聖書である。これほどにうつくしい絶望を見たことがない。ちなみに、題名は『四行詩』という意味にすぎず、一般的な『四行詩』がみな、ハイヤームのようなものともかぎらないようだ。おそらく、太宰治人間失格』に挿入される四行詩は、『ルバイヤート』を意識したものである。


【短歌】

靖国の母は九段にひざまずき 銃弾(十段)にたおれし 息子慕いて
 ――桂歌丸

 笑点大喜利で(一応)即興でつくった一首である。笑点出来レース説があり、番組収録前に御題だけは出演者につたえられているといわれるが、それでも数時間でつくられたとはおもえない出来映えである。短歌は総数がおおく、原理的に一位はきめられなかったので、前述した経緯をふくめて、本作をえらんだ。


【俳句】

おい癌よ 飲み交わそうぜ 秋の酒
 ――江國滋

 江國香織のお父様の一句である。辞世の句だったかもしれない。というのも、愚生はよく『原典を参照しないで文章を引用する』といういいかげんな悪癖があり、本作も『どの本に書いてあったかわすれた』ので記憶によって再現したのである。もしかしたら『飲み明かそうぜ 秋の酒』だったかもしれない。おそらく、本作における癌は飲酒が原因なのであろう。そんな癌と最期の酒を飲み交わす。『いのちとはなにか』という大仰な主題への問いと答えが一句におさめられているような感動がある。


【クラシック】

モーツァルト「主イエズス・キリスト」(『レクイエム』収録)

 一時期は、『これ以上うつくしい音楽は存在しない』とおもうほどに感動し、一日で20回以上再生したこともあった。あまりに聴きすぎたせいで、さすがに飽きて、疎遠になってしまった。次点はリストの「ラ・カンパネラ」としたいが、これは演奏者の個性に倚藉しすぎるので、一位にしなかった。「ラ・カンパネラ」がすきなのは、そもそも、パガニーニのヴァイオリン協奏曲がすきだからなのだが、原曲は構成に不満があるので、えらばなかった。


【洋楽】

ピンク・フロイド「あなたがここにいてほしい」(『炎~あなたがここにいてほしい』収録)

 ピンク・フロイドの活動は、全三期にわけられる。シド・バレットがヴォーカルをしていたころの第一期、バレットが発狂して脱退し、ギルモアが加入した第二期、第二期のリーダーであったウォーターズが脱退したのちの第三期である。『炎』自体をベスト1とするかまよったが、本作のなかでも、名バラード「あなたがここにいてほしい」一曲を最高峰にえらんだ。本アルバムは、『狂気』の6000万枚という爆発的なヒットを閲して、レコード会社から『自由につくっていい』といわれて制作された実験ロック巨編である。代表作「狂ったダイアモンド」は、発狂したバレットへささげるバラードとしてつくられたが、録音爾時、当人バレットが歯をみがきながら、儵忽とスタジオにあらわれて、『ぼくの出番はまだかい』といい、メンバーがバレットの豹変ぶりにあらためて悲嘆したことから、もう一曲、バレットのために本作「あなたがここにいてほしい」が制作された。もうあれだ。泣ける曲だ。『あなたは仮面とほんものの笑顔の区別がつくかい』だとか『おれたちは永遠に金魚鉢のなかをさまようふたつの魂』だとか『あれからおなじグラウンドをはしりつづけてみつけたものはおなじ不安だけ』だとか、歌詞の水準が異常にたかい。ボブ・ディランが獲れるのならば、ピンク・フロイドにもノーベル文学賞を穫らせるべきである。


【邦楽】

井上陽水『氷の世界』

 岡村靖幸『家庭教師』および稲葉浩志『マグマ』とまよったが、まあ、どれも邦楽の最高峰である。共通点として、シンガーソングライターによる全編自作曲のアルバムという特徴があげられる。また、ながらく「自己嫌悪」が自主規制のために収録されていなかったが、最近のCDでは復活しているようだ。愚生は「自己嫌悪」を聴いたことはない。

 

【総合一位 人類史上最高の藝術】

ロジャー・ウォーターズザ・ウォール~ライブ・イン・ベルリン~』

 主人公の誕生から、ロックスターになり、麻薬におぼれて裁判にかけられるまでをえがいた、ピンク・フロイド時代の巨編ロック・オペラ『ザ・ウォール』CD二枚組を、ベルリンの壁崩壊直後のベルリン市内において再現したロックコンサートである。
 原典となるアルバム『ザ・ウォール』は、二枚組アルバムとしては史上最高記録となる3000万枚を売りあげた。といえども、当時のピンク・フロイドは、リーダーであるウォーターズの独裁バンドと堕しており、『ザ・ウォール』は元来のピンク・フロイドの幻想的な作風を豹変させた、硬質なロックばかりで、現在もピンク・フロイド・ファンのなかで賛否両論がまきおこっている。
『おれは壁のひとつの煉瓦にすぎない』と歌うヒット曲「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」を中心に、「ヘイ・ユー」、「コンフォータブリー・ナム」といった名曲のかずかずの最涯てに、『結局ひとつの煉瓦にすぎないおれに壁をこわすことなんてできなかったんだ』としめくくられる。
 ここにおける『壁』とは、資本主義であり、共産主義であり、文明そのものともいえる。資本主義の暴走によって勃発した第二次世界大戦から、共産主義の擡頭と崩壊を閲して、冷戦の終焉を象徴することとなったベルリンの壁の崩壊にあたり、ウォーターズがベルリンで『壁』の悲劇を歌うという、これだけでも奇蹟的なライブであった。
 ライブは高級車でウォーターズがステージに登場するところからはじまり、バンドの眼前で、スタッフたちが一個ずつ白堊の煉瓦をつんでゆく。後半は、最早、『壁』でバンドがかくされた状態で演奏がつづく。後半一曲目、つまり、CDの二枚目の一曲目にあたる名曲「ヘイ・ユー」では、ヴォーカルまで『壁のむこうがわ』で歌い、観客は聳立する『壁』のむこうがわからとどく音楽を聴くしかなかった。斯様にしてヴォーカルは「イズ・ゼア・エニバディ・アウト・ゼア」を歌う。『ねえ壁のむこうにだれかいるの』と。この斬新さ!
 最終的に、クライマックスとなる裁判シーンをえがいた「ザ・トライアル」の演奏とともに、巨大な『壁』はスタッフの人力によって崩壊させられてゆく。本来ならば、ここで前述した『結局ひとつの煉瓦にすぎないおれに壁をこわすことなんてできなかったんだ』と歌う「アウトサイド・ザ・ウォール」が演奏されて終焉となるはずだったが、急遽、ウォーターズの発案で、『RADIO K.A.O.S』の収録曲が演奏され、大団円となった。慚愧すべきことに、愚生は『RADIO K.A.O.S』を聴いたことがなく、英語が苦手なので、最終楽曲の歌詞はわからないのだが、どうやら、曲調からいって、ベルリンの壁の崩壊を祝福しているようにきこえる。
 人類の歴史が七万年くらいとして、二千五百年前くらいにターレスが本格的な学問を濫觴させる。それから文明はわれわれに利器をさずけるとともに、最涯てのない戦争の歴史をつむがせてきた。そんな人類史のなれのはてが、第二次大戦における原爆の投入からはじまる、核戦争を揣摩憶測させる戦後冷戦期だった。さような文明という化物に、ロックンロールで対峙しようとした『ひとつの煉瓦』であるウォーターズは、無論、文明という『壁』には勝利できなかったが、『ザ・ウォール』が人類に聴かれているかぎり、われわれは『壁』の悲劇を忘却しないでいられるだろう。
 ヒトラーが自殺したとされ、東西冷戦の終焉を象徴するとされる場所、ベルリンで開催された奇蹟のライブ『ザ・ウォール』を観賞していると、おおげさではなく、『人類の歴史はこの二時間のためにあったのではないか』とさえおもえる。ギリシャ悲劇やシェイクスピアの戯曲に比肩し、音楽とイメージの大伽藍を構築した本ライブを、愚生は『あくまでも勝手に』人類史上最高の藝術として鑽仰したい。

 余談だが、残念なことに、『ザ・ウォール~ライブ・イン・ベルリン~』のDVDは廃盤となっている。かわりに、本ライブを再現したらしい『ロジャー・ウォーターズザ・ウォール』というDVDおよびブルーレイが発売されたので、こちらでも当時の感動を追体験できるかとおもわれるが、愚生は未視聴なので責任はとれない(どうやら、壁をつくってこわす、という演出は無理だったようで、巨大な壁へのプロジェクション・マッピングが演出の中心になっているようだ)。さらに余談だが、民主党支持者であるウォーターズは、トランプ政権樹立爾時に激怒し、ピンク・フロイド時代の楽曲を中心としたライブ『アス・アンド・ゼム』を開催している。そういえば、ドナルド・トランプも、メキシコとアメリカの狭間に『壁』をたてましたね。