Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

文學はほんとうに死んだのか。~『純文學はオワコン』論に反論する。

 愚生は、本随筆集の『文學は死んだのか。』において「文學は死んでいる」と書き、ネット書店の丸山健二著『真文学の夜明け』のレビューで「文學は生きている」と書くという、自家撞着した態度をとってしまったが、これらは、愚生の私淑する丸山健二が提唱している『真文學』の可能性を覬覦してのことであった。畢竟、ボルヘスやソローキンのいうように、近代文學からの瀲灔たるながれは、現代では断絶されているかにおもわれるが、丸山健二は『その先に存在』する真文學へと冀望をたくしているのである。

 丸山健二は『死んだのは文學ではなく文學もどきである』と断言し、『文學はこれからはじまるのだ』というように標榜する。たしかに、純文學は過去の遺産となりそうだが、丸山健二のいうように『これから真文學の時代がはじまる』のだと冀望して、此処でいったん、巷間に瀰漫する『文學はオワコン』論に反論しておきたいとおもう。

 愚生の随筆「文學は死んだのか。」も一種の『文學はオワコン』論であったが、なかんずく、ネット上で散見される『文學はオワコン』論は、いずれも、あまりにも表面的すぎて、批判となりえていないとおもわれる。『文學がオワコンかいなか』以前に、『だれも文學のことを真剣にかんがえていない』ことに個人的な危機感をおぼえたのである。ゆゑに、此処で、表面的な『文學はオワコン』論にたいして、ジンテーゼにいたるためのアンチテーゼとして、あえて、『文學はオワコン』論の各論への批判を考覈したいとおもったのだ。

 畢竟、愚生は『現在の純文學のありさまに満足はしていない』という視座からもって、『文學はオワコン』論には賛成だが、『純文學という範疇が根本的に終焉している』とはおもわないところで、『文學はオワコン』論に反対したいのである。斯様なる二律背反のなかで、巷間の『純文學論』のバランスをとるために、僭越ながら、いくつかの視座を『純文學論』に導入したいわけだ。

 今回は、ネット上でよくみられる『純文學批判』の類型として、『◇文學とはなにか定義できない。』『◇純文學はもう売れない。』『◇文學を讀むことに意味がない。』『◇サブカルチャーがあれば文學は必要ない。』というよっつの論点において、『文學はオワコンではない』というように反論してゆきたいと存じあげる。


 ◇文學とはなにか定義できない。

 ソシュール言語学において、シニフィエシニフィアンの狭間に恣意性が介在することは明鬯とされている。『文學とはなにかわからない』のならば、おなじくソシュール的位相において、『数学とはなにかわからない』し、『ダックスフントとはなにかわからない』ことになる。チョムスキー生成文法理論ならば、幼児期の生成文法シニフィエの乖離はないのではないか、といわれるかもしれないが、後述のとおり、ラカン精神分析学によれば、根源的に象徴界現実界は剥離しており、有名なはなしだが、『人間が直截に現実界にふれると発狂』する。


 ◇純文學はもう売れない。

 生前の丸谷才一の研究によると、単行本『羅生門』は当時のベストセラーとして、『二〇〇〇部』しか鬻がれていなかった。それでも、界隈の作家たちは、『二〇〇〇部も売れるなんてすげえな』と喫驚していたという。それが、現代では、芥川賞史上稀にみる売れなさであったという、丸山健二の『夏の流れ』単行本版ですら、四〇〇〇部売れたのである。余談だが、丸山健二の長篇『BLACK HIBISCUS』(2021年)は、一セット一〇万円で四〇セット売りあげた。

 念のために追記してみれば、純文學と漫画の単行本の売り上げには明鬯たる霄壌の差があるが、純文學は基本的に作者と編集者くらいで製作するのにたいして、漫画は数名のアシスタントの糊口を凌がせしめねばならないので、有名漫画家でも純文學作家以下の生活をしている、あるいは、赤字で新作がだせないということも稀有ではないという。


 ◇文學を讀むことに意味がない。

 ドーキンスの情報遺伝子論によれば、われわれ人間に『こころ』は存在しない。われわれが『こころ』と勘違いしているものは、外界からの刺戟としてのインプットを、ほかの外界からの刺戟にたいするアウトプットとして自動的に処理する情報の団塊でしかない。此処でわかりやすくラカン精神分析学を援用すれば、『無意識とは他者のディスクール』であり、『現実界想像界を体験するには象徴界が必要』であって、『外界の言語の団塊としての他者aが存在しなければ自分は存在しない』ことになる。此処にドーキンスラカンのアナロジーをみいだすことは容易であろう。

 柄谷行人は『必読書150』のなかで、『これはサルでも読めるブックガイドということではない。これくらい読んでいなければサルだということだ』というように書いていた。そのうえで、人文科學50冊、世界文學50冊、日本文學50冊が紹介されていたわけだ。

 畢竟、古今東西に明滅する言語の集合としての他者aを、情報遺伝子としていかほど無意識のディスクールとできるかで、『われわれは人間かサルか峻別』されるのである。


 ◇サブカルチャーがあれば文學は必要ない。

 マクルーハンのメディア論における『ホット』と『クール』の定義は繁文縟礼で、しばしば、勘違いしてもちいられることで有名である。愚生も勘違いしている蓋然性があるが、語弊を厭わずに説明すると、縦軸を『情報量』で横軸を『参加可能性』だとした場合、情報量がおおく参加可能性がひくいほど『ホット』になる。がんらい、マクルーハンは文學をホットなメディアとしてみていたらしいが、よくいわれるように、マクルーハンのメディア論は現代のメディアの状況と乖離しているところがある。其処で、現在、文學とサブカルチャーのいずれがホットかというと、圧倒的にサブカルチャーであろう。

 かつて、活版印刷技術による情報網=グーテンベルグの銀河系がメディアの主流になった爾時、すでに、文字列は『クール』で絵は『ホット』だった。たとえば、ホットなものに風刺画がある。十九世紀の紐育に『ボス』と鑽仰される有力者がいたが、ボスは界隈の政治家と癒着したうえで汚職をおこなっていた。恁麼のようすが新聞に風刺画として載った爾時、ボスはこういった。『有権者は破家だから文字は読めないが、絵ならばわかってしまうではないか』

 これとおなじことが、ベンヤミン政治学でもいえるだろう。ベンヤミンは『複製技術自体の藝術』において、『歴史の証人』であった藝術は、複製技術の進歩によって『アウラ』を喪失し、アウラを喪失した藝術は政治化されると指摘した。ベンヤミン共産主義者であったので、まず、アウラを喪失した藝術を共産主義革命に利用できないかと考覈したが、現実に藝術を政治化した嚆矢は、『美の祭典』や『民族の祭典』によって世界的な支持を隴断せんとしたナチスであった。アウラを喪失した藝術であり、ホットなメディアであるサブカルチャーには、斯様に不都合な側面があることを指摘しておきたい。


 ――おわりに 

 愚生は、本随筆集の各篇の紙幅を『2000文字前後』と勝手にきめているので、斯様に圧縮的な論調になってしまったが、いちおう、已上が、いまのところ愚生の標榜できる『文學はオワコン』論にたいする反論である。一気呵成に執筆したので、哲学的なタームや書名などに誤謬があるかもしれないが、御容赦いただきたい。

 最後に、『ではこれからの純文學はどうすればよいのか』という、『いつつめの批判』を想定してみたい。冒頭に執筆したとおり、愚生は『これから真文學の時代がはじまる』という丸山健二の主張に賛同するものである。では、『真文學』とはなんなのか。『それは実際に真文學とよべるレベルの文學がでてこないとわからない』といわれたら鮸膠もないが、丸山健二がデビュー当時から断言しているのは、『現代の文學の文章表現のレベルは二十%くらいである。七十%の文章が書けていたら大物とよばれる。われわれは映像文化にまけない文章表現をめざさなければならない』ということであり、此処における『映像文化』を『サブカルチャー』に置換すれば本論にもつながることであろう。

 また、丸山健二は『真文學とよべるレベルの作品が新人賞に応募されたら、かならず理解されずに落選するだろう』『これからはまっとうに仕事をしながら、自費出版などの経路で自信作を後世にのこすという書き手がのぞまれるだろう』というようにもいっている。現在のネット環境ならば、カクヨムやKDPにより無料で作品をのこせる。愚生は『アマチュアとプロはシステム的な乖離でしかなく、実際に書いている作品の偏差は同等だ』とおもっていて、ゆゑにこそ、斯様なカクヨムやKDPを劈頭とする、アマチュア文壇にも注目してきた。愚生ごときが此処で絶讃すると、各氏の迷惑になるとおもわれるので、個人名を臚列することは遠慮しておくが、実際に、アマチュア文壇でも『プロの世界にいてもトップクラス』とおもわれる書き手が何人もみつかった。斯様な俊乂たちの作品が後世までのこることを冀望しながら、此処で擱筆したい。