Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

死後の科学〜『窮極の問い』と死後の世界

 疫病の瀰漫、海外での紛争、有名政治家の暗殺などと、黯黮たる気分になるような輓近である。

 そこで、愚生はもはや、現世にはあまり興味がもてなくなり、ひまがあれば、『死後の世界は科学的に証明できるか』ということばかりかんがえるようになった。

 ゲーテは『死せよ。成れよ。』といったが、よくわからないので、曩時に愚生が原文の詩集を購読して、祖父の遺品である独日辞典で翻訳したところ、直訳すると『死して死後のしあわせをねがえ』となることがわかった。

 つまり、ゲーテにとって、現世はあくまでも仮の世界であって、死後の世界でのしあわせこそが生滅の窮極的な目標だったわけである。

 といえども、ほとんどの読者諸賢は、『死後の世界など存在しない』か、『死後の世界が存在するかいなかは不可知である』とお考えになるだろう。

 愚生は浄土真宗の檀家だが、宗派とはあまり関係なく、『山川草木悉皆仏性』であり、つまり、人間も草木も素粒子も銀河系も、死後に、西方の極楽浄土へ『成仏』するとしんじている。

 無論、これは『しんじている』だけなので、『かんがえている』わけではなく、なんら根拠もない宗教的信念にすぎない。

 本統に『しんじられれ』ば、それでいいわけだが、愚生は尫弱なので、やはり『でも本統に極楽浄土なんてあるのかなあ』と『かんがえてしまう』のである。

 そこで、いまのところかんがえられる『死後の世界』が存在する可能性についてまとめてみたい。

 結論からいえば、科学的に、死後の世界は『かなりの確率で』存在する。

 わかりやすく、邃古から自然科学人文科学双方で議論されている『窮極の問い』というものについてかんがえてみたい。

『窮極の問い』とは、『なぜこの世界にはなにも存在しないのではなくて、なにかが存在するのか』というものである。

 つまり、『なぜこの世界は永遠の虚無ではなく、豊饒なる宇宙が存在するのか』というような問題だが、『窮極の問い』は論点が『ずれ』やすいことで有名なので、ここで詳細までつっこみ、ややこしいことにはしないようにする。

『窮極の問い』には、さまざまな解決案がしめされているが、そのひとつが、『世界になにかが存在するパターンは無限だが、なにも存在しないパターンはひとつだけ(永遠の虚無だけ)なので、確率論的になにかが存在する』というものである。

 すこしややこしいかもしれないが、ボルヘスの「バベルの図書館」を一例としたい。

 つまり、『アルファベット26文字と空白による無限個の文字列のしるされた書物が存在すると仮定されるとき、全頁が空白のパターンはひとつだけであり、空白のなかに一文字がしるされているもの、二文字がしるされているもの、三文字がしるされているもの――というように、ひとつでも文字が這入ったパターンは無限である』ということだ。

『全頁が空白』のパターンが『永遠の虚無』であり、『一文字以上が印刷されている』パターンが『なにかが存在する世界』ならば、『なにかが存在する世界』が成立する確率のほうが無限倍おおいのである。

 愚生は中卒で、高等数学についてはまったく無知なのだが、極限をもちいた数式にすれば、lim(x→∞)1/x=0で、『世界が永遠の虚無である確率は0に収束する』と表現されるのではないかとおもわれる(本統に愚生は数学が苦手なので、まちがいであったらもうしわけない)。

 ここまでくれは、あとは単純である。

『窮極の問い』のアナロジーとして、『死後の世界が存在するパターンは、無限に存在するが、死後の世界が虚無であるパターンはひとつだけ』なので、『死後の世界が虚無である確率は0に収束する』ことになる。

 これが、愚生による現在における結論である。

 無論、この解決法では、『あくまでも死後の世界が存在しない確率は0に収束するだけで、『0ではない』』のであるから不完全だ。

 また、この論法でゆくと、『死後の世界が存在する確率は∞に収束するが、それが極楽浄土のようであるとはかぎらない』のももちろんだ。

 つまり、『死後の世界が基督教的であったり、回教的であったり、上座部仏教的な地獄が存在したり、あるいは、人類がまったく想像できない世界であったりする可能性も充分にかんがえられる』のだ。

 ともかく、愚生は『死後の世界は存在するとしんじている』が、論理的には『死後の世界はかぎりなく百%にちかい確率で存在するとかんがえている』ことになる。

 これがいまのところの結論だが、もちろん、宗教的な観念がたぶんに這入ってくる問題なので、読者諸賢の宗教的理念(あるいはぎゃくに科学的信念)に悖理する記事になっていたら、もうしわけない。

 真実がなんであれ、愚生は、いずれこの問題に決着がつくことをねがっている。