Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

なぜ生きるのか~道徳を棄てよ!

 われわれはなぜ生きるのか。
 こたえはかんたんである。
『金持ちがもっと美味しいものを喰らい、金持ちがもっと美人とセックスし、金持ちがもっと尊敬されるため』にわれわれは生きているのである。

 われわれがどれだけ勤勉に――勤勉どころか場合によっては物理的に死ぬほど――労働しようと、美味しいものはたべられないし、素敵な異性とは会話すらできないし、だれからも尊敬されないばかりか軽蔑される。這般の努力のすべては、われわれが最低限に糊口をしのぐため已上に『金持ちがしあわせになるため』に遂行されているのである。

 愚生はひきこもりだが、両親の経営している工場で、極端な力仕事が必要になった場合だけ、手伝いをしている。シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』を讀むとよくわかるし、実際に工場に勤務経験のある読者諸賢は熟知しているとおもわれるが、『現代の肉軆労働は、知的労働と力仕事の極端な両立』である。ヴェイユの時代にはなかったNC機器はともかく、たんじゅんなフライス作業でも、機器の調整には高度な知識が必要であり、どうじに、長時間の肉軆的拘束が必須とされる。

 斯様な作業は、無能なる愚生にはとうてい無理なので、極度におもい鉄塊をはこぶ作業などを愚生が担当しているのだ。然様な単純作業も、一五分でもしていれば、心臓が澎湃と搏動し、嘔吐感をもよおしてくる。肉軆の恢復には数日をようする。

 こうやって、とうてい、実際の肉軆労働者にはかなわぬくらいの肉軆労働をしたのちにおもったのが、『おれはなんのために生きているのだろうか』ということである。恁麼のこたえはかんたんにだされた。冒頭の『金持ちがもっと美味しいものを喰らい、金持ちがもっと美人とセックスし、金持ちがもっと尊敬されるため』である。

 前述したヴェイユの『工場日記』に『労働は人間から思考を奪うものだ』というような一節があり、高橋源一郎はこれをうけて『人間は考える葦であるという意味以前に人間は考える存在なのである』というように解説していたが、実際にわれわれは労働そのものによって、労働の『無意味さ』を隠蔽されているのだ。

 ニーチェはいった。
『すべての哲学的認識には道徳的起源がある』と。
 畢竟、プラトンイデア論も、ヘーゲル弁証法も、ショーペンハウアーの自殺論も、すべて『いろいろな視点で物語っているが、結局は、道徳は大事だぞといっているにすぎない』のである。

 エンゲルスはいった。
『すべての道徳は支配者層のために存在してきた』と。
 愚生はアナーキストであり、共産主義者ではないが、この『共産党宣言』の一節は人生のむなしさ、無意味さ、不条理さを明鬯に物語っているとかんがえる。

 たとえば、三島が『不道徳教育講座』において、『たくさんの悪徳をもつことが大事だ。道徳が九九%で悪徳が一%という人間がいちばんあぶない』というときには、けっして『悪徳のための悪徳』が物語られているのではなく、『たくさんの悪徳をもつことでおおきな悪徳からまぬかれられる』という『道徳のための悪徳』が推奨されているにすぎない。同時に、これらの『道徳のための悪徳』は結句、社会を『正常という名前の異常さ』で機能させるためという道徳的起源をもつのである。

 結句、われわれが『金持ちのために生きる』だけの人生から『われわれのための人生』を奪還するためには、『道徳をすてて悪徳に生きる』のが最善なのである。

『道徳的起源をもった道徳』の起源を解明したのがカントであって、畢竟、『他者を手段ではなく目的としてあつかえ』という嚮導こそが、『道徳の法則は天体の運動のように正確である』というときの『法則』になる。ゆゑに、われわれがわれわれの人生を奪還するための『法則』は、カントの真逆をゆく『他者を目的ではなく手段としてあつかえ』ということになる。

 カミュが『シーシュポスの神話』のなかで、『不条理な、つまり破家げたこの世界に敗衄しない』ためには、ソクラテスのように『ただ生きるのではなくよく生きること』ではなく、『よく生きるのではなくただ生きること』が第一だと書いたのと同様である。愚生は上記の『法則』によって、道徳的起源のさいたるものであるカントからの脱出を――あるいはツァラトゥストラのいうところの『没落』を――推奨するのである。

 われわれはいまこそ、道徳を棄てなければならない。悪徳を鑽仰しなければならない。われわれのもとめる英雄とは、ヘビースモーカーの酒飲みであり、ひきこもりの自殺未遂者でなければならない。

 われわれは超人であるとともに、無能でなければならない。