Kindle作家九頭龍一鬼(くずりゅうかずき)の人生と意見

自著の紹介やそのほかいろいろをおとどけする予定です。

夢と言語と無意識~『引き寄せの法則』から爆走する犬まで

 前回、手相を話題にしたので、スピリチュアル関聯で『引き寄せの法則』について書いてみたいとおもった。愚生は『引き寄せの法則』については懐疑的なのだが、一冊だけ、法則の科學的論拠を提示している書籍があったので、当仮説の検証をしようとおもったのだ。『引き寄せの法則』とは、ねがいごとを文字にすると実現する、というものだが、仮説によると、『左脳で文章を認識し、右脳の無意識に浸透させることで、自動的にねがった人生へとすすんでゆく』ということであった。其処で、言語と無意識について考覈していたら、『引き寄せの法則』そのものより、此方のほうに関心をいだいてしまったのである。

 というわけで、言語と無意識から『夢』にまで敷衍してかんがえてみたい。

 まずは、ラカンについてである。ラカンによると、われわれの無意識は言語(厳密には単語)で満たされている。ゆゑに、無意識の表出としての夢は、『無意識内の単語を聯想してゆくかたちでイメージ化』しているのだという。其処で、『家』や『地震』は視覚的にイメージ化できるが、『そして』や『しかし』などの接続詞はイメージにならないので、『夢は物語として支離滅裂になる』わけである。

 斯様にかんがえると、ラカンの私淑したフロイトの理論も説明できる。フロイトによると、『統合失調症患者は奇妙な夢をみる』という。そもそも、統合失調症とは『聯想が分裂する症状』として表出する(ゆゑに、元来『精神分裂病』と呼称されていたが、これでは、解離性人格障害=多重人格と勘違いするかたがおおく、問題があった)ので、『単語の聯想ゲーム』である夢が『奇妙になる』ことが、ラカンによって理解できるのである。

 なのに、である。ラカンは躬自らの理論により、師匠のフロイトの理窟を盤石とせしめることはしなかった。ラカン精神分析学の基本は、『人間のこころは言語によってまもられて』いるがゆゑに、『言語のかべをやぶって、直截世界にふれた』ときに人間は発狂する=統合失調症を発症する、というものであった。其処からの帰結なのだろうが、ラカンによると『統合失調症患者は夢をみない』とされる。統合失調症当事者としていわせてもらうと、『統合失調症を発症しても夢はみる』ものだ。実際に、陽性症状を発症して閉鎖病棟に入院した爾時にみた夢を、愚生はいまでもおぼえている。(ちなみに、入院一日目は『担当医師が病室にやってきてメモをみせてかえってゆく』という無意味なものであった)

 そのほか、ラカン精神分析学の論文には、おおくの数式が挿入されていることで有名だが、這般の数式も、数学的に検証すると、出鱈目なものがほとんどだそうだ。また、ラカン関聯の書籍には『われわれは他者の夢を生きている』というくだりがよく引用されるが、これも、ユングシンクロニシティーなどと同様、いささか、胡散臭い。矢張り、夢や無意識の研鑽では、フロイトの右にでるものは存在せず、無意識の研究はとりあえず、フロイトで完成されているといってよい。(名著『快感原則の彼岸』あたりも、三分の一程度は先駆する心理学者の論文からの引用でなりたっており、畢竟、フロイトは精神医学の嚆矢というよりも、集大成した俊乂なのである)

 が、愚生としては、『無意識が言語でなりたっている』というラカンの主張だけは偉大な発見だと存じあげる。これにより、前述の夢の理窟が解明できるし、さらに遡及して、くだんの『引き寄せの法則』も説明できるのである。といえども、ならば、睡眠中に爆走をはじめる犬などは、あきらかに夢をみているはずだが、犬の無意識も言語でみたされているのか、という疑問などはのこる。『わん、わわん、ぐう』という言語が『猫においかかけられて爆走する』という夢になるのだろうか。

     ◇

 夢と言語と無意識について書いてきたが、最後にちょっとした雑学を披露しておきたい。夢をえがいた文豪として、日本では夏目漱石筒井康隆が有名だが、海外におけるボルヘスの『夢への熱中度』はかれらに冠絶していた。記憶が曖昧なのでもうしわけないが、ボルヘスの随筆集『続審問』のなかで、『時間をこえておなじ夢をみた人間』のはなしがでてきたはずだ。ボルヘスの蒐集した文献によると、十三世紀の蒙古人が某日『巨大な宮殿を建設しはじめる』夢をみた。それから五百年ほど閲した十八世紀の英吉利の詩人が『巨大な宮殿を完成させる』夢をみた。畢竟、『五百年の歴史を閲して、ふたりの人間がひとつの夢をみた』記録をボルヘスは発見したのである。

 愚生は、恁麼のくだりを読んで、たいへん、知的な興奮をおぼえたが、よくかんがえればおかしなはなしである。たとえば、曩時、怪異学者の井上円了が、『どうして人間は正夢をみるのか』という問題を呆気なく解明したことがあった。畢竟、当時の『日本には数千万人の国民がいて、毎日、数千万もの夢がみられているがゆゑに、そのうちのいくつかが、未来におこる現実と類似していてもおかしくはない』ということであり、『たんなる確率論』だというのだ。

 ボルヘスの『巨大な宮殿』のはなしは、『正夢』についての円了の分析とおなじ見方ができるわけで、結句、『確率論』なのである。五百年というスパンで巨億の人類が夢をみていたら、いくつかの夢は『つながっていてもおかしくはない』のだ。といえども、斯様な文献に逢着するまでのボルヘスの情熱には敬意を表さずにはいられない。