大坪命樹氏の人生を追体験する歌集
大坪命樹氏の実体験をもとにしたとおもわれる第四歌集である。
現在、韻文の世界は、現代詩からはじまった『私秘性』という概念に支配されつつある。
おそらく、マラルメを源流とする、零度のエクリチュールのながれのなかで、現代詩人たちは、言葉の意味を殺戮して、読者がその内奥を識りえない詩の世界を構築してきた。
それは、現代詩のみならず、短歌や俳句の世界も同様で、たとえば、短歌の界隈では、あきらかに『穂村弘以前、以後』でその影響が劃されるとかんがえられる。
それに比較して、大坪氏の短歌は、徹底して現実の体験を、五感による『景』として描破する。
そこに『私秘性』は皆無で、すべての言葉に溌剌とした意味があり、一首ごとに明瞭なる世界がえがかれている。
ゆえに、読者は大坪氏の短歌を読むと、『自分も大坪命樹氏の人生を追体験している』という感覚におちいる。
本作では、大坪氏のお父様との永訣とおぼしき章からはじまり、アマチュア作家としての苦悩、奥様との羈旅、文学フリマへの出店体験などがえがかれているが、これらに『情景』の『情』がないがために、我我読者の『情』がその『景』に投影されるという仕組みになっている。
たとえば、大坪夫妻が大阪万博のコロンビア館にはいったとき、ガルシア=マルケスのタイプライターを観るという短歌があるのだが、ここで、読者も眼前にガルシア=マルケスのタイプライターが置かれていて、読者諸賢がそれぞれに感想をいだけるような感動があるのだ
例外として、「平和希望歌」と題される章は、一章まるごと万葉集風の長歌になっており、大坪氏の情熱がうかがえる。
それにしても、この分量で、第四歌集まで出版できる短歌への情熱はすごい。
また、あとがきも名文なので、最後までお得な歌集である。
