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大坪命樹氏の第二論文である。
個人的に、速読で拝読したので、全体的に誤読している可能性があり、本レビューも不適切な可能性があるが、そのあたりはご諒承いただきたい。
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本論は、まず『小説はだれが書いているのか』という根源的なる論点から濫觴する。
そこにおいて、大坪氏は、仏教における『諸法無我』などのタームを駆使して、『われわれは外部からの影響によって成立しているキメラにすぎないので、われわれ自身が書いているのではなく、キメラとしてのすべての要素が輻輳して書いているのである』というように仰有る。
これが、題名である『キメラとしての信仰』の『キメラ』の部分である。
そのうえで、大坪氏は、神懸かりによって傑作を執筆できた体験を物語るなどして、『神懸かり』とは言葉の綾ではなく、実際にわれわれは神のようなものに書かされているのだ、というように論理を展開してゆく。
ここは、モーリス・ブランショのいう『彼』の理論にちかい。
モーリス・ブランショの『文学空間』や『来るべき書物』によると、作家は無意味な文字をつらねることによって、『もうひとつの夜』を彷徨し、『彼』に書かされるだけの存在になるという。
これが有名な『文學の死』であるが、モーリス・ブランショと相違して、大坪氏は、『そのために文學は生きている』という方向性を見出しているようにおもわれる。
つまり、執筆とは神に書かされている行為であり、たとえ、世間にみとめられなくても、文學の神にみとめられれば、われわれは満足できるのだということであろう。
こちらは、ジャック・ラカンのいう『大文字の他者A』とほぼおなじ視座である。
ジャック・ラカンによると、われわれはおなじ人間という『小文字の他者a』にみとめられるだけでは満足できず、もっとおおきな『大文字の他者A』にみとめられなければ満足できないという。
ここでいう『大文字の他者A』は諸説あるが、そのひとつが神であることは間違いない。
ここにおいて、大坪氏の慧眼は、ジャック・ラカンと一致する。
ここが、『キメラとしての信仰』における『信仰』の部分といえるだろう。
さらに論文は敷衍されてゆき、なかんずく、AIと藝術の問題を穿鑿してゆくところが面白くなっている。
畢竟、藝術というものは不完全だから藝術であるのであり、AIの藝術は完全だから藝術ではないというように愚生は理解させていただいた。
つまり、われわれは不完全だから文學を書けるのであり、AIが文學を書くには、まず『不完全に』ならなければならないというわけだ。
この逆説は非常に蠱惑的であるし、間違いなくひとつの真理を浮彫にしているとおもわれる。
たとえば、大坪氏はプラトンのイデア論に言及し、『四角のイデアを現実では再現できない』こととおなじく、『完璧な文學のイデアは現実には執筆できない』というようなことを仰有っている。
村上春樹氏の『風の歌を聴け』の冒頭文を引用までするのは野暮だろうが、これはまったくの真理である。
大坪氏は最後に、『全人類は藝術家になるべき』だと仰有る。
そもそも、人生そのものが藝術であり、全人類が藝術家になれば、世界は平和になるという、前作から垣間見える大坪氏の一貫した平和主義に感動させられる。
『人生でなにも成し遂げたくない』といってノーベル文學賞を辞退した哲学者エミール・シオランは『ヘーゲルの全著作を読むよりも、一葉の手紙を書くほうが創造的である』というようにいっていたはずである。
まさに、全人類は一葉の手紙を書くべきなのである。
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以上、ざっと速読したかぎりにおいて興味深かった箇所についてレビューさせていただいた。
意外だったのは、新人賞を劈頭とする文壇のプロ・アマ構造への言及がすくなかったことで、わがままをいえば、是非とも、この矛盾点をもっと穿鑿してほしかった。
が、それは欲張りすぎだということだろう。
全体的に俯瞰すると、『われわれは神によって小説を書かされているのであり、その神にみとめられれば満足なのである』という骨骼がみえてくる。
これが大坪命樹氏という『キメラとしての信仰』であるが、『信仰』だというのはあきらかな謙遜であり、上記の命題は、きっとわれわれ執筆者たちにとって、普遍的に真であると愚生は信じている。
